突然の離伯、「志半ば」
「もっと長くいたかったし、知りたい事が沢山あった」―。
インタビュー開始早々、非常に残念そうな表情を見せる。当初5年間の赴任予定が2年に縮まり、その思いがけないブラジルとの別れは、曰く〃志半ば〃だという。
ブラジルの興味は多岐に渡った。観光、食はもちろん、テレビドラマや踊る側としてのサンバ、またポルトガル語は去年から検定に挑戦し、任期終了まで続け、上級レベルになるのが目的だったそうだ。
「ブラジル料理も外で食べるだけでなく自分で作れるようになりたかった。何しろムケッカが大好き。(苦手な人も多い)デンデ油も気にならない」。それもあって、ブラジル最後の旅行先にサルバドールを選び、本場の味を堪能したようだ。
「W杯の空気感はすごい」
一番印象に残った出来事を尋ねると、「ワールドカップ」と即答。
「初戦の日の試合前の街の静けさと、試合後の喧騒との差には本当に驚いた。午前中、外には人が誰もおらず静まり返っていたのに、試合が終わるとサンパウロ市中大騒ぎになり、その空気感を肌で感じた。あの異様さは忘れられない」
一方、知人、友人、元同僚アナウンサーがブラジルを訪れる絶好の機会となり、また、関連イベントの司会も務められたことも大きな喜びになった、と語る。「だから、オリンピックも体験したかった。本当に心残り」
と、またも残念そうな表情を見せた。
自分に課した〃使命〃
竹内さんがコラムで綴る日常は、いつもブラジルに対する愛情、好奇心などで満ち溢れている。精力的に催しや各地に訪れ、小さな子供を抱えた母親とは思えない程活動的だ。それもこれもみんな「少しでも、遠く離れた日本の人に知って欲しかったから」と話す。
「限られた時間の中で知り尽くして、それを皆に広められるようになろうと日本を出るとき、心に決めて来た。その為に出来る限りの事を体験しなければ、と思っていた」
在住時には日本のラジオ番組等に出演する事もあり、中継でブラジル事情の報告も。その度に聞かれるのは「治安の悪さ」「デモの状況」など悪い面に焦点を当てた事ばかり―。だが、前述の来伯した元同僚や友人、知人は「思っていた程危険じゃない」と皆口を揃えたと言う。
「私自身もそうだし、来る前は周囲も心配した。でも来てみるとサンパウロは東京に似ているし、気をつければそんなに危険ではないと思った。日本から遠い国なので情報も少ないし、私も知らないことが多かった」。日本で報道の現場にいただけに感じることも多かったようだ。
移民、コロニアへの思い
実際、日系社会についてはブラジルに来るまで知らなかったという。「来た直後は、県人会の催しなどに毎週行った。そのうち、フェイスブックなどで声かけがあり、1世、2世からも集まりに誘われ参加し、話を聞いたりした」。
そんな機会を得て思う。「日系人たちは日本人以上に日本への思いが強い。自分達の文化を大切にして、歴史を語り継いでいて本当に尊敬する。自分の日本人としての態度を反省するほど。これからも次世代に受け継いでいって欲しい」
子供に伝えたいこと
〃愛すべき国〃でありながらも、「やはり許せないところも一杯有りましたよ!」と力を込める場面も。「何をするにも滞りがちだし、停電や漏水に悩まされた。またレストランで押し込み強盗にもあった」と他聞に漏れず、危険な経験も。
「でも、住んで行くうちに慣れるし、妊娠している時に周囲から親切にされた事が本当に感激」と気持ちは親伯に。
昨年2月、男の子を出産した。ブラジルの日常に反して、「驚くほど何もかも順調な出産だった」と振り返る。
「心配はしたが妊娠中は周りから常に親切にされ、どこに行っても優先されるので恐縮するほど。産後は興奮冷め遣らない内に友達がすぐお見舞いに来てくれた。子連れだとどこに居ても知らない人が気にかけてくれ、まず困ったことがない。外出も設備が充実しているので、買い物でも食事でも連れていけ、普通に生活出来た」
「こんなに親切にしてもらったのだから、自分も人に親切にしなければ」と思うようになったとも。「息子はブラジル人でもある。理解できるようになればその事を伝え、生まれた時に多くの人にお世話になったことを伝えたい」
◎
「ブラジルに来るなんて思いもしなかったけど、出産まで経験して親子共々色んな人に世話になり、本当に感謝の気持ちだけ。いつか息子が大きくなったらまた一緒に戻って来たい。今後もささやかでもいいからブラジルと関わっていければ。コラムを読んでくれたニッケイ新聞WEBサイトの読者のみなさん、ムイト・オブリガーダ!」