私が在サンパウロ総領事館に勤務した始めは1972年ですから、当時の公館はまだ57年しか経っていなかったのか、と今頃になってしみじみと感じます。百年のうち四分の一世紀を公館に勤めた私は色々な事件に遭遇しましたが、報道されなかった「忘れられない出来事」を書いておきたいと思います。
それは1973年6月のことでした。
終戦後28年経ってからグアム島のジャングル内で見つけられ「最後の一兵」として大ニュースになった横井庄一さんがサンパウロへ新婚旅行にやって来たのです。
当然、邦字新聞はもとよりブラジルのマスコミでもセンセーショナルなトピックスとなりましたが、どこから情報がもれたのか「サンパウロの伊藤政雄総領事が横井夫妻を晩餐に招待する」というニュースが伝わったのです。
当時は安全対策など何もないのんびりした時代でしたからブリガデイロ・ルイス・アントニオ街にあった公館は、領事室以外のドアは開けっ放しで、誰でも自由に出入りしていました。広報文化班の松本クララ嬢に「このおじさんたちのアテンドお願いします」と言われて私は初老の日系紳士二人を応対しました。
いかめしい顔つきの両人は「総領事に面会したい」と言うのです。「何の御用件でしょうか」と聞くと「総領事が横井夫妻を公邸に招待すると聞いたが、一国の代表が敵前逃亡兵を夕食に招くとはけしからん。どうしても止めさせたいのだ」と興奮している様子でした。
私はとっさの申し出にどうしようかと迷いましたが、こんな過激派を総領事には通せないし、広報担当領事にも会わせたくなかったので、こういう人には高飛車に出た方が良いと判断した私は、毅然たる態度で「ちょっと待ってください。私も軍隊教育を受けましたからお気持ちはよく分かります。でも横井さんの場合は夜襲を決行した本隊とジャングルで離れてしまった30人の補給隊だから、敵前逃亡ではありません。総領事も元海軍士官だから、あなた方が反対に怒られると思いますよ」と説明したら、両人は気が抜けた様子で引き取って行きました。
おそらく言葉の裏にある私が言いたかった気持ち、つまり「前線に行ってない者が何を言うか」を感じ取ってくれたのでしょう。
後で分かったのですが、このお二人は終戦直後ブラジル国内のスキャンダルとなった勝ち組のメンバーだったそうです。私の上司だったブラジル通の鈴木康之領事から「坂尾さん、うまい対応でしたね」とほめられましたが、本省派遣の方がたは「日系社会には未だに明治時代みたいな人がいるんですね」と驚いていました。
考えてみれば、グアム島で洞窟生活に耐えた横井さんも、家族を戦争で失った人たちも、ブラジル日系人の勝ち組も、戦争による深い傷は同じではないでしょうか。 (筆者は元総領事館広報文化担当)
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