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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(52)

現在のアサイ中心街

現在のアサイ中心街

 この平十さん、ブーグレ時代、大事にしていた良馬を盗まれた。怒り心頭、200キロもの距離を探し回った。ジャタイを経てロンドリーナまで行ったが、見つからなかった。しかし「人間万事塞翁が馬」で、ジャタイの路傍の叢に、野生の棉が開花しているのを見つけた。白く柔らかで豊かな繊維のかたまりをつけていた。
 それまでは、北パラナのテーラ・ロッシァには、棉は不向きとされていた。肥料分が豊かすぎ、葉茎のみ繁って収穫が少なく、採算が取れないというのである。それで誰も栽培しなくなっていた。
 しかし現に実物を見た平十さんは、移住地で栽培するよう提案した。入植者を集めて農事研究会をつくり、各自の畑で試作することにし、種子をブラ拓に取り寄せて貰った。
 収穫期がきた。平十さんの畑は、見事な出来だった。植付け時期や栽培方法を、種々工夫した結果であった。1アルケーレ400アローバス収穫という──綿の本場サンパウロ州の一等地でも珍しいくらいの成績だった。市況も好水準を維持していた。
 移住地は沸き返った。噂はたちまち広まり、入植希望者が急増、同年のロッテ分譲数は、前年の十倍に跳ね上がった。移住地建設失敗の危機は去った。綿は以後、好況に恵まれ、トゥレス・バーラス移住地を繁栄させた。カフェーと共に主作物になった。平十さん、大変なお手柄であった。


9年目に満植

 綿のお陰で入植者が増え、新しい区の造成も進んだ。最終的には、計15の区がつくられた。
 ロッテの販売・入植者数は年によって種々の事情から増減があり、時期も計画より遅れた。が、1941年末には分譲済み総面積Ⅰ万4、800アルケーレス、住民1、614家族、人口8、666人となった。これで所期の目的を9年目にして、ほぼ達した。当初は5年の予定であった。
 同年の住民の内訳は、市街地260家族、農場地帯は土地所有者880家族、コロノ・歩合作者474家族で、コロノや歩合作者の中には、ブラジル人が多数含まれていた。
 これは1938年、通称「新移民法」がブラジル政府から発令され、植民地(含、移住地)の入植者は一定比率以上、ブラジル人であることが義務付けられたためである。ブラ拓事務所は、それに副うように入植者を募集した。


自治を目指す

 市街地の選定は不評であったが、農場地帯の設計に関しては、評価する声もある。今日、アサイの長老格の嶋田巧氏は「セッソンは良くつくってあった」という。
 嶋田さんは1933年、サンパウロ州マットンに生まれ、1942年、親に伴われトゥレス・バーラスにきた。
 セッソンというのは、区のことである。その名称は一部を除いて、銘木のそれを選んでつけられていた。区の広さは各々1千アルケーレス前後で、入植者はいずれも数十家族であった。個々のロッテには、必ず水源があった。
 ブラ拓は、サンパウロ州に在るバストス、チエテを含め、傘下の移住地の経営は、段階的に入植者の自治に移行させようとしていた。そのためトゥレス・バーラスでは、各区で、早くから日本人会をつくった。これを区会といった。その全区会から成る連合日本人会も組織された。
 各区の中心部には、15アルケーレスの公共用地が用意されており、ブラ拓から、区会に無償で提供された。小学校用の土地である。敷地以外はカフェーを植え、収入は経費に充てることになっていた。