臣道聯盟理事・谷田才次郎
馬の背……つまりアサイの市街地のことは、先に触れた。
その背筋に当たる大通りを下り切った処に、谷田才次郎という人物が長く住んでいた。戦前から戦後にかけてのことである。製材所を営んでいたが、その一方で、臣道聯盟の本部(在サンパウロ市)理事でもあった。
極めて個性的な男で、幾つか話の種を残している。例えば、終戦から四半世紀後の1970年頃になっても「勝ち組だった」という。
ただ、彼に関する纏まった資料があるわけではない。筆者は断片的なそれを探し、拾い集めてみた。
一資料によると、谷田才次郎は、1898(明31)年、東京に生まれ、昭和の初期、30歳で妻子を連れて渡伯している。以後の数年は不明である。が、トゥレス・バーラス移住地の25年史によると、1934年、ブラ拓事務所が製材所の操業を始めた時の主任の名が「谷田才次郎」となっている。3年ほどで辞めている。
筆者はアサイを訪れた時、戦前末期を微かに記憶しているという一住民に谷田のことを訊いてみた。すると「セラリアをやって儲けていた」と思い出してくれた。ということはブラ拓を辞めた後、自分で製材所を始め、成功していたことになる。
1941年、戦争が始まり、45年に終った。その終戦直前、サンパウロ市で、臣道聯盟が発足、各地の有志に加盟を呼びかけた。アサイにも声がかかり、応じる者が多く、忽ち支部ができた。その時、谷田が支部長になっている。製材業は、戦時中も順調であったのだろう。彼は親分肌でもあった。
翌1946年に入ると、本部の理事に昇進した。アサイ在住のままである。ちなみに他の理事は、総てサンパウロ州内に住んでおり、州外は彼一人であった。
直訴企て、島流し
同年4月1日、サンパウロ市で、敗戦認識運動の指導者、古谷重綱と野村忠三郎が襲撃された。
この時、サンパウロ州では、DOPSを中心に州警察が動き、臣聯本部の役職員、地方支部の役員、さらに臣聯以外の戦勝派を大量に拘引、その多くを留置した。
ただ、管轄外のパラナ州までは手を出していない。パラナにもDOPSはあったが、動かず、谷田は無事であった。しかし飛躍的な行動に出た。事態の収拾方を首都リオデジャネイロのヅットラ大統領に直訴しようとしたのである。そういう性格の持ち主であった。彼は、この戦勝派狩りは、敗戦派の陰謀である──と憤激していた。
直訴状の原稿を日本語で書き、ポルトガル語への翻訳を人に頼み、それを持ってリオへ向かった。が、待ち受けた同州のDOPSに拘引されてしまった。パラナ州のDOPSから通報を受けていたのである。(谷田は後々まで、翻訳者が密告したと疑っていた)同時期、アサイでは彼の息子二人が、警察に連れていかれ訊問を受けていた。ひどく殴られたという。
谷田は、リオからサンパウロのDOPSへ移送された。その留置場や──そこから廻された──カーザ・デ・デテンソン(未決囚拘置所)には、臣聯仲間が多数いた。
この間、巷では襲撃事件と戦勝派狩りが続いていた。
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