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エドアルド 質疑応答 (New!)

サンパウロ市リベルダーデ街にあるニッケイ新聞編集部に3月4日(金)に来社してくれたエドアルドさんに、いろいろと突っ込んだ質問をしてみました。どんなことを聞いても、ちゃんと受け止めて、真剣に答えるエドアルドさんに、こっちがびっくり。日本語の達者ぐあいもさることながら、なかなかキモも座っているようです。(編集部)

Q プロを目指して日本に旅立って以来、ようやくブラジルに戻ってこれましたね。

エドアルド5年ぶりです!!
「自分の夢を果たすまでは何年かかろうと絶対に帰らない!」と決めていましたから。

 

Q 久しぶりにこちらの空気を吸って、いかがですか?

空港にブラジルの皆が駆けつけてくれて、本当に胸が熱くなりましたね。
自分が5年前に日本に旅立ったときも見送ってくれた人たちだったので。その倍くらいの人が集まってくれて、歓迎パーティーが空港から始まったかのようでした。周りの乗客の人たちも「誰が来たんだ!?」という感じで。私も言葉にならないくらい嬉しかったし、この時が来たんだと思いました。「本当にブラジルに戻ってきたんだ。本当に皆がここにいるんだ」っていう嬉しさの実感が、後から増してきましたね。思わずウルッときてしまいました。

日本ではメールや電話で、皆さんの応援や反応は聞いていたんですが。
故郷の人たちが背中を強く押してくれていたんです。
帰ってきて、皆さんが直接「テレビ見たよ、泣いたよ」と言ってくれて。

 

Q 今回、3月6日にサンパウロ市の文協(ブラジル日本文化福祉協会)でコンサートを行ないますが。

自分はブラジルでカラオケ大会に出ていた時代は、まだエドアルドという名前ではなく、吉川トシアキという名前で歌っていました。その名前しか知らない人たちもいます。20年前、僕が最初に舞台に立ったのは11歳のときでした。その場所が今回の文協なんです。文協では色んな歌を歌いました。
自分の中でも、ここで凱旋コンサートを行なわせて頂けることに、運命を感じます。

 

Q デビュー曲「母きずな」のどこが好きですか?

エドアルド一言でいえば、全てです。
詩が奥深く、メロディーが美しい。
作詞された、たきのえいじ先生がお父さん、作曲家のあらい玉英先生がお母さんとなって、その魂がつないだものなので。やはり、作品全てですね。
ここまで皆様に評価を頂いているのも、皆さんが共感できる詩であり、演歌ファンが好むメロディー、歌いたくなる曲であることが理由だと思います。

演歌では多いのですが、与えられた曲のイメージ作りをしないといけないんですね。
主人公を描かないといけないパターンが多い。どこかの地名を歌ったり、ある役柄を演じたり。
でもそういうことが、僕のデビュー曲には全くなくて。
まさに自分の人生を歌っている歌なので、無理がないんですよ。
自分が無理やり「こう歌おう、ああ歌おう」ではなくて。
そのまま自分の今まで生きてきた証というか、そういうものが出てくるんですね。
デビュー曲として「母きずな」を歌わせていただける嬉しさは、言葉にならないです。
本当に恵まれた新人だと思います。

この曲は恩師あらい玉英先生が命をかけて作ってくださったと思うんです。
たきの先生も僕の生い立ちを知った上で書かれた詩なので、嘘が無いんですよ。

観客の方とお話すると、「自分の人生を歌ってくれている」と言ってくださる。そのことがすごく嬉しいですね。
「私の人生にもこういう時があったんですよ、うちの母に何の恩返しもできなかったけど、この曲を聞いてすごく慰められてます」とか。
逆に、「私は息子を亡くしたんですが、まるで息子が歌ってくれているようです」という方もおられます。子供を亡くされて、色紙やポスターに子供の名前を書いてほしい、という方も。それも1件2件ではなく、とてもたくさん。
皆さんが涙を流しながら話してくださるのが、すごくうれしいです。

皆さんがそういう反応を示してくださった時に、この曲は本当に素晴らしくて、皆さんに届いているんだなと実感します。

 

Q 生みの母へ何を伝えたいですか?

素晴らしい日系家庭に預けてくださったことへの感謝です。
生後2日目で別れたので、記憶には残っていませんでしたが、実は5年前、日本に発つ前に、26年ぶりに生みの母に会いました。
日本に行ってしまえばいつ戻ってこれるか分からない。
それで生みの母と知り合いだった叔母さんに連絡をして連絡先を聞き、再会することができたのです。
生みの母は、僕が生まれ育ったサンパウロ市ジャバクアラ地区の近くに住んでいました。
再婚していて、僕より10歳下の妹ができていました。
妹に初めて会い、一人っ子として育った僕は、自分と血がつながった兄妹がいることが嬉しかったですし、彼女も心強く感じたようです。本当に温かく迎えてもらいました。
ちょうど復活祭(イースター)の時期だったので、チョコタマゴをお互いにプレゼントして。

そして僕が日本に行くと知って、生みの母から「日本で何かの足しにして」とお金をもらいました。
そんなに恵まれた環境に住んでいるわけではないのですが、彼女が大切に貯めてきたお金のようでした。
僕は別にいらないよと言ったんですが、生みの母として何か与えたかったんでしょう。そこは息子のことを心配する母ごころですよね。日本に行って歌手になるという僕に、「私は何もしてあげられないけれども、ブラジルから見守っている。あなたの成功を祈っている」といって見送ってもらいました。

育ててくれた両親は、日本にデカセギに来た経験が何度もあるんですね。
それで日本の仕事時間の長さとか厳しさを分かっていたので、僕1人では耐えられないだろうと考えていました。
なので、一緒に力を合わせてがんばろうと、僕が来日して4カ月後に、育ての母が来てくれたんですね。それからずっと一緒にいます。

 

Q NHK歌謡コンサートの席で泣いておられましたよね。

そうです。
「生みの親よりも育ての親」といいますが、今までの苦労とか大変な時期もあった中、母がずっと心の支えと言いますか、母がそばにいるから何があろうと乗り越えられるという力が、どこからか湧いてくるんですよ。
1人では乗り越えられないことも、「大丈夫、明日になれば何とかなるよ」と。

 

Q ナツエさんは今もエドアルドさんを支えるために働いておられるのですか?

はい、パン工場で1日12時間働いています。
僕自身も全く同じ工場で働いたことがあるので、その厳しさを知っているんですよ。
母は今年62歳になるので、長時間労働の疲れとか、手のしびれ・痛みが半端じゃない。
ロボットがするような仕事を人間がやっている状態なので。非常に大変な仕事をしています。

 

Q テレビやラジオでこれだけ取り上げられるのは、どんな理由からだと思いますか?

いつもキャンペーンの日には、「自分はスポーツ選手ではないですが、演歌の金メダルめざして頑張ります、応援よろしくお願いいたします」と言っています。皆さんの反応も良いですよ。
リオ・オリンピックから4年後の東京オリンピックをつなぐような、架け橋になることができれば光栄ですね。

 

Q サンバは踊れますか?

エドアルド踊れませんし、カーニバルに参加したこともないんですよ。
和太鼓には心を動かされますが、サンバのリズムは「楽しいな」というだけで終わる。

自分のキャッチフレーズ「魂を歌いに来た男」というのは、そこから来ているんですよ。
血のつながりはないんだけれども、日本の演歌を歌うというのはどういうことなんだ、と。
まさにこれが魂だということから、事務所の社長が「魂」を入れてくれ、と。

僕が日本語をしゃべるので、皆さんから「日本人の血が入ってるんじゃないの」「日本で生まれ育ったのでは?」とよく聞かれます。
「日本はもう長いんでしょう」とか。そこから始まります。

 

Q サッカーもやらない?

やりません(笑)
それを「まつり」や「浪花節だよ人生は」を歌うときに、お客さんに言ってるんですよ。
「サッカーはできない、サンバも踊れないブラジル人です、だけど演歌に血が騒ぎます!」と。

 

Q 演歌を盛り上げていきたい気持ちがありますか?

まさにその気持ちです。
ブラジルならサンバ、日本なら演歌と、その国を代表する音楽だと思います。
演歌にはそれだけの魅力がある。

 

Q 5年というのは長かったですか?

自分の夢を追いかけて日本にいるのですが、とにかく日本が大好きなので、辛いとか大変という気持ちも、難なく乗り越えられるんですよね。
どんなに遠回りしていたとしても、日本は自分にとって安心の場なので。
心が満たされるんです。だから5年間が長く感じることはなかったです。

 

Q どんな仕事をしましたか?

国際電話サービスのカスタマーセンター、弁当工場、パン工場、ブラジル銀行、ヤマト運輸の倉庫の仕訳。昼にカラオケ喫茶、夜はマクドナルドと掛け持ちしたことも。カラオケ喫茶は僕が初めてNHKに出たときに、エドアルドが働いていたお店として紹介されました。

カラオケ喫茶に来る人たちは、自分たちが歌うよりも僕の歌を聞きたいという人が多かった。
「エドは働かなくていいから、歌ってくれ」と皆さんにリクエスト頂いて、僕はすごく幸せでしたね。

 

Q 2月に受賞されたNAK流行歌新人賞とは、どういうものですか?

エドアルド過去3年間で最も期待される新人に与えられる賞です。
プロになって最初に頂いた賞であり、応援してくれる皆さんへの恩返しの1つになったかな、と思います。

 

Q ブラジルにも歌手志望者はいますが、メッセージをお願いします。

初のブラジル人男性演歌歌手として、日本とブラジルをつなぐ大きな架け橋になりたいという気持ちを持っている自分ですが、自分の姿を見て「勇気づけられた」「自分もプロになる決心がついた」という人たちが出て、本当にプロになってくれたら、これ以上うれしいことはないです。

 

Q 日本の芸能界で発見したこと、驚いたことは?

毎日発見と出会いがあります。
何より職業として演歌を歌えることがうれしい。
自分が一番仕事にしたかった演歌歌手になれて、日本全国周ることができて、
色んな人に出会えて・・・すごく幸せです。

自分の歌を聞きに来る人がいて、感激して拍手して迎えていただける。これ以上はない、感無量です。

また芸能界は厳しい縦社会です。
でも北川先生に日本語も礼儀もブラジルで厳しく教えていただいていたので、大丈夫でした。
日本に5年いるだけでは、これだけ日本語を話せるようにはならない。
ブラジルに居たときから、カラオケ大会で司会もさせてもらい、厳しく全て教えていただきました。

読み書きは小学校時代、8歳から11歳のときに両親が群馬と京都(宇治)にデカセギに行った3年間で、ひらがな・カタカナを学びました。
その後、帰国して公文式でも学びました。あとはとにかく歌の歌詞で覚えました。
2000年前後に日本語能力試験2級を取り、ブラジルの全国スピーチコンテストで優勝もしました。
総領事館の在外選挙のアルバイトもやりましたよ。

 

Q 芸能界の大御所との関わりは?

デビュー前に、ブラジル出身で唯一紅白に出たマルシアさんの舞台を見させてもらったとき、楽屋で「プロを目指してます」と言うと、「がんばって、私も同じブラジル人として誇りに思う。日本の演歌を歌いたいという人がいることを応援してます」という言葉をもらって、すごく励みになりました。
北島三郎さんとはBSの「演歌四人姫」という番組で恐れ多くもご一緒させていただいて、激励してくださいました。握手していただきましたが、今までで一番緊張した日でした。

 

Q 心に決めた女性はいますか?

今は全くありません。
忙しいからではなく、今はプロ歌手として自分の職業をしっかりやっていくことが目的。

 

Q エドアルドさんにとって、演歌とは何ですか?

まさに自分が歌い継いでいかないといけない魂です。

 

Q 演歌を歌うことで、皆さんに何を与えたいですか?

日本の素晴らしさ。
そしてブラジル人である自分を温かく応援してくださり、認めてくれたことへの感謝です。
だからこそ夢は日本とブラジルの架け橋になることです。

 

Q 2011年の東日本大地震についてコメントをお願いいたします。

自分は歌い手として、被災者の絆をつないでいける、
みなさんに少しでも心の慰めを感じていただければ、うれしいですね。

 

Q オリンピックの年ですが、どんな活動をしたいですか?

日本とブラジルの架け橋になれるものであれば、何でもやらせていただきたい、という気持ちがあります。

 

Q 紅白への思い入れは?

自分が歌い始める前からずっと見ている番組です。
4、5歳くらいで細川たかしさんの「浪花節だよ人生は」を聞いて演歌に魅了されました。
一番の憧れの舞台ですね。
年に一度、日本を代表する歌手しか立つことができない大舞台。
自分にとっても夢ですし、今年の大きな目標でもあります。
リオ・オリンピックの後に何が来るんだといえば、やはり紅白歌合戦に出られましたよ、とブラジルの皆さんに報告できれば最高です。
まさに皆さんへの恩返しになると思います。

 

Q 日系社会へのメッセージを。

僕をデビュー前から知ってくださっている方もたくさんおられます。
これまで支えてくださって、まず感謝を申し上げたい。
皆さんの応援があったから、ここまでがんばってこれました。
これからもよろしくお願いいたします。

 

Q 今日は本当にありがとうございました。(おわり)