パラグァイの名物と言えば『ナランハ』(ミカン)、『ジェルバ・マテ』(マテ茶)と『女性』が有名である。ナランハはブラジルで言うラランジャだが、パラグァイのものとは一寸味が違う。ジェルバ・マテもアルゼンチン、ウルグァイ及びブラジルでも知られるいわゆるマテ茶だが、元はグアラニー族分布領域の在来植物であって、従いパラグァイが自生マテ茶の原産地だった。さて、次は女性の話で艶つやめくが、その裏にはパラグァイの壮烈な歴史がある。つまり、パラグァイを語るには避けては通れない「三国同盟戦争」(1865~70)である。ブラジル、アルゼンチン、ウルグァイの三国を相手に5年間も戦って壊滅したパラグァイに残ったものは、壮青少年男子の大部分が戦死し、「女護ガ島」(にょごがしま、日本に伝わる伝説上の地名。女性のみが暮らしている島)と化した焦土であった。
この戦中戦後を通じてアマゾナ(女傑=ヘロイン)の偉業を果したのが、辞書にもない「ラス・レシデンタス」Las Residentas[動詞Residirの現在分詞Residente(居留者)に由来する文法的バイス=欠陥詞]、とわが特有の語彙で呼ばれる歴史にも有名なパラグァイ女性である。
その経緯を語ろうとするなら、起源はサンチェス副大統領が1868年2月22日付で公布し、アスンシォン全市に強い衝撃を及ぼした行政令にあった(註・ロペス元帥大統領は野戦軍総司令部の陣頭にあって政務はサンチェス副大統領が代行していた)。
同行政令の布告条項は次の通りであった。即ち、
一、本日を以ってアスンシォン市を軍事体制の拠点に宣言し、これを実施すべし。
二、本布告後48時間以内に全市民は警察署が指定する箇所へ、それぞれ退避すべし。
三、これを機に、空き家又は路上で窃盗行為を敢えて犯す全ての者は直ちに銃殺の刑に処すべし。
四、敵軍と連絡(密通)するいかなる者も厳に死刑を以って処罰すべし。
五、これ等のスパイや裏切り行為を感知するも、直ちに当局への告発を疎かにしたる共犯者は同じく厳罰処刑すべし。
六、本布告条項の厳守履行の為、市内各公共要所に於いて公開公示せよ。
大統領代行
フランスコ・サンチェス署名
国家臨時公証官
ヴィセンテ・ヴァーリェ署名
この行政令がアスンシォン市民に与えたショックの程は容易に理解できるものである。
既に主だった多くの壮年・青年層の男性は、これまで3年間の戦闘で亡くなり、未だ残った少数の兵士達は各地で最後の砦を死守していて、国の人口は老人、少年、幼児それに女性達だけに減っていた。
国難の戦いで国の為に夫や息子を失い、今またいつ戻って来れるかも分からぬ住み慣れた家や家財を残して去る銃後の女性達の心情は、いかほど悲壮なものだったかは推して知るべしだ。更に無念なのは、それらは占領下、進駐軍兵士の容赦ない略奪に荒されるのだ。
なお、注目に値するのは「ラス・レシデンタス」は、金目の金銀宝石の装身具類を欠乏する軍資に充てるべく献納運動を起こした事で、また敵軍の略奪を避ける為に退去の途上で埋め隠して行ったのであった。これが今でも時に掘り当てられる宝探しの的になっているのだ。
しかし、例えこの逃避行が飢餓、貧困、疲労、時には死を意味するものであっても、彼女達は断然と決意した。
それは侵略軍の思うままの陵辱を受けるのを潔しとしなかったからである。
しかして、1870年3月1日にロペス元帥がセロコラの戦場で戦死する日まで、その必死の逃避行は続いた。
この忌まわしい三国同盟戦争が終わって間もなく、パラグァイは男性活動人口の殆んどを失ったゆえに、深刻な復興問題に直面した。
その不足を立派に充たしたのが国家再興に健気に立ち上がった「ラス・レシデンタス」の女性達であった。
多くのシングルマザーの彼女達は子供を産み育て、教育し、野良では畑を耕し、牛馬やその他の家畜を飼育し、ガラニー文化の継承にも貢献した。家庭では家長であり全てを取仕切り、果ては国の再建に中枢の位置を占めたのである。
なお、話は飛ぶが1932年~1935年の3年間も続いたボリビアとのチャコ戦争に出征した男性に代わり、銃後を守ったラス・レシデンタス精神が旺盛なパラグァイ女性は野良仕事に従事し、戦中の農産物、例えば綿花等の生産量が普通よりも明らかに増加したと言う統計記録が残っている。
「ラス・レシデンタス」とは先にも示した様に、我が国特有の(文法的バイス・欠陥がある)熟語であるが、過去100有余年来、崇高なるパラグァイ女性の苦難、忍従、献身の精神を象徴する語彙なのである。
でも、なぜか「ラス・レシデンタス」は現在に至るも、「英雄の神殿」(Panteon de los Heroes)に未だに祀られていない。
心ある識者の間でこれは正に女性に対するパラグァイ人のマチズモ(男尊女卑)の〃恩知らずな忘却〃に他ならないと指摘されている。
ところで、本稿の冒頭でパラグァイ名物の一つが「女性」だと書いたが、当国にはスペイン系の血を引いた混血美人が多い。戦後、『世界の裏街道を往く』の著者でパラグァイにも来た事がある評論家の大宅壮一氏(1900~70)が、先ずスペインに立ち寄った時の感想の表現を借りれば、日本の名女優「原節子の様な別嬪がどこにもウヨウヨしている」のだ。
かつて三国同盟戦争で壮青少年層の男性が殆んど戦死した終戦後のパラグァイは〃女護ガ島〃と変じ、「パラグァイは木から女が降ってくる楽しい国だ」と言い触らされ、恰も女道楽には天国の様な評判だった。
これは思うに、「ラス・レシデンタス」が軍隊に付いて行った例の逃避行中、追跡して来る連合軍の兵士を木の上で待ち伏せし、勇敢に襲い掛かった史実を、後で勝者側が面白おかしく歪めて言い伝えたのが始まりではなかろうか。
しかし、これは絶対にパラグァイ女性の名誉の為にも弁明しないといけない。
歴史は常に勝者、または強い者の都合の良い様に書かれがちである。一寸意味は違うが、第2次世界大戦の産物である旧日本軍が犯したと言う韓国との「慰安婦問題」は、どうも筋がスッキリしない水掛け論だが、「戦争は負けるものではない」と言う良い例で、なおかつ「歴史は正しく書くべき」という一つの良い教訓である。
これらの事を公正にいみじくも代弁して下れたのが、誰あろうローマのフランシスコ法王その人である。
アルゼンチン国出身者でパラグァイの歴史に明るい、教名をフランシスコと名乗る現ローマ法王は、かつてのホルヘ・マリオ・ベルゴグリオ枢機卿であり、ブエノスアイレス教区の大司教だった頃からパラグァイ女性の良い理解者であった。
フランシスコ法王は、昔まだ神学生の頃にパラグァイから政治問題でブエノスアイレスに亡命してきた薬剤師のカレアガ女教師に「職業的に又は精神教育面でも自己の人格形成上大いに薫陶を受けた」と言う。
そして、例の不正義で不当な三国同盟戦争で殲滅したパラグァイ国の再興に戦後尽くした「ラス・レシデンタス」の偉大な功績を讃え、「ラテンアメリカ広しと言えども一番の栄光はパラグァイの女性にあり」とし、「それは単に他の地域の女性に比べ学問的に優るとか劣るとかの簡単な話しではない」と賞賛したのは二度や三度の事ではない。
昨年7月にパラグァイを公式に司牧訪問した機会にフランシスコ法王は、昔の恩師カレアガ女教師の家族と懐かしい劇的な再会を果したのは感動的であった。
以上随分長いパラグァイ女性礼賛論になって仕舞ったが、筆者のワイフがパラグァイ人だからと言う訳でもないが、フランシスコ法王のパラグァイ女性観に筆者は同感で、もし将来女性大統領でも出れば、パラグァイはもっと良い国になるのではと、大いに期待したい。
「移住事業は人なり」
このパラグァイ国に、戦前初にして唯一の日系集団計画移住地ラ・コルメナが建設されたのは1936年の事であり、今年はパラグァイ日本人移住80周年の一連の記念行事が盛大に行なわれ、秋篠宮殿下の長女眞子内親王殿下が9月9日のアスンシォン市でのメイン祝賀行事へのご出席と、その他各地の日系入植地訪問の為にご来パされた。
ちなみにこれまでの、皇室のパラグァイ訪問は、天皇皇后両陛下が、未だ皇太子同妃両殿下だった1978年に初めて、1972年のストロエスネル大統領の日本公式訪問の答礼としてパラグァイを訪問されたのに始まる。移住50周年の1986年に常陸宮同妃両殿下のご来訪及び、2006年の移住70周年記念祭には眞子さまの父君秋篠宮殿下が親しくパラグァイを訪問され、今回の眞子内親王殿下のご訪問を数えると通算4回目にもなる。
正に無類の親日国家パラグァイの面目躍如たるものがあり、この日パ親善外交の基盤をなすものは、1959年に締結された日パ移住協定である。同協定は、ストロエスネル政権崩壊後(1989年)に、30年の期限が切れたが、改めて無期限に延長された。
そして、やはりこの信頼の基は戦前戦後を通じ、営々として培われて来た、誰しもが疑わない日本人移住者の信用に他ならない。
確かにこれは日本人移住者の良い資質が有ってこその話で、パラグァイに限らず他の国々に在住する多くの日系人も、日本政府が認める様に日本の貴重な人的財産なのである。
こうして話して来ると、どうも日本人の男性ばかりが偉そうに聞こえるが、どうしてその裏には女性の陰の、即ち「内助の功」が有っての結果たる事実を決して無視は出来ない。
これまで長い移住生活をして来た筆者は、今は亡き母親のイメージを通じて、コロニアの女性がいかに陰で尽くしたか、その力の程が良く理解できるのである。
しかし、移住事業の裏で大変力になった、声なき彼女達の功績は、案外マチスタの男性達は語らない。不公平である。
筆者が敢えて最初にパラグァイの「ラス・レシデンタス」の話を長々と持ち出したのは、色んな苦労の多い移住地コロニアでの日本人女性に準たかったからである。
そして、更に言い足せば男女を問わず、黙々として縁の下の力持ちになった無名の謙虚な人達が必ずいる事実が、これまで何回も有った記念祭で忘れられがちではなかったか?―少し見直す必要はないかと言うことである。
余計なお節介かも分からぬが、今後とも案外知られぬコロニアの陰の史実を発掘し、後生の世代に正しく伝える事が大切ではないかと、憚りながら筆者なりに愚考する次第である。