ブラジル日系作家アカデミーが先月28日、日本から来伯した松田パウロさん(60、神奈川県)の講演会をサンパウロ市内のホテルで開催し、同会員ら約25人が参加した。松田さんは東京農業大学林学科で学び、1980年に卒業した日本人。82年には農業実習生としてトメアスー移住地に渡った。実習当時、ブラジル人から『材木馬鹿』と呼ばれるほど材木の研究に熱中したという。「パウロ」という呼び名は桐の学名「Paulonia Tomentosa」から取ったそうだ。現在は「竹キチガイ」を自称する松田さん。講演では二宮尊徳翁の報徳思想と竹の魅力について語った。
トメアスー移住地での実習後、海外青年協力隊としてフィリピンに渡った松田さんは、「エンジニアとして行ったが、現地の労働者と一緒に森の中で働くことで労働の喜びと竹の魅力に浸かりました」と笑顔をうかべた。林業・農業に触れるうち、二宮尊徳翁の報徳思想に惹かれていったという。現在は2~3年に一度来伯し、竹の研究を行っている。
1930年、下元亮太郎氏らにより土佐から淡竹、真竹、孟宗竹がコチア郡に持ち込まれたことを挙げ、「サンパウロ市近郊に自分の土地を購入し竹を植えたが、当時は自分の土地なんて買うもんじゃないという『デカセギ』的な思想が移民間であり、かなり変わり者として扱われた」と紹介した。
その真竹の産地でもある足柄地方(神奈川県)の小田原市栢山にある二宮翁の生家には、裂いた真竹で作られた壁面もあるそう。「こういうのも百聞は一見にしかず。ぜひ生家を訪問してください」と竹愛を見せた。
二宮翁に関心を寄せた理由について「農家の子どもがなぜがっしりとした体格を持ち、苦境にも負けない精神を手に入れたのか興味を持った」と話し、「二宮尊徳先生は中級以上の豊かな生まれだが、この家にも及んだ激しい水害で財産を失った」と二宮翁について語り始めた。
1707年の宝永大噴火の影響による「酒匂の氾濫」の際、二宮翁は家の梁に上り難を逃れ、家に流れ込んだ川の水の中で鮎が泳いでいるところを見た。「子ども時代に起きた人間にとっての『災害』は、魚類にとっての『増殖期』でもあったんです」と説明した。
「特に、どじょうや鰻など泥臭いが人間を元気にするものが増えた。こういったものを食べていれば自然と元気づき悲しいことに負けず、しかも体は丈夫になる。こういったことから日本人は団結して辛い時代を乗り越えられた」と二宮翁の強さの秘密を語った。二宮金次郎像といえば、かわいらしい子どもの姿だが、成人後の二宮翁は慎重約183センチ、体重90キロという武道家のような体つきだった。
二宮翁の報徳思想について「元々『働く』の語源は『傍(他人)を楽にする』。これから世界中の経済成長が止まり戦争が起きても、争いのない世界が生み出せる思想だと思う」と述べた。
講演会後、出席者らが挨拶や講演についての感想などを述べ、講演終了となった。
なお、松田さんは「二宮尊徳翁とアマゾン開拓」(1月31日~2月2日付け掲載)を本紙に寄稿したことがある。日本文化をポ両語で紹介するHP「水門言之葉(みなとことのは)」(www.minato-cotonoha.com/)も運営している。
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松田パウロさんは講演会中、映画「チキチキバンバン」(1968年)のバンブーダンスのシーンを流し、「映画の舞台である20世紀初頭、日本人のブラジル移住が始まった頃にヨーロッパでは竹ブームが起こった。この映画はそれをよく描いており、また労働の喜びも表現している」と説明。例としてブラジル人飛行家サントス・ドゥモンや、京都八幡の竹を使い白熱電球を発明したエジソンを挙げた。松田さんによると、ドゥモンは飛行機作りの際、強靭な性質を持つ日本の絹を使用することにこだわったとか。「日本の布袋竹が使われたのではないか」とも予想している。ブラジルの誇りである飛行家の発明品に日本との意外な関係が?
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松田パウロさんによれば、今年の4月、伊豆半島では「120年に一度咲く」という淡竹の開花が始まったという。竹は開花後、一気に枯死してしまうという。枯死してから甦るまでに10年かかるそうだ。ブラジルと日本では1960年代、同時期に真竹が開花した。日本の竹産業は大ダメージを受けたが、日本の竹に関わる職人が頑張って10年間持ちこたえたそう。松田さんは今回の淡竹の開花後、枯死のピークは2020年と予測している。東京五輪で訪日の際は日本の竹にも注目するとおもしろいかも?