無頼と反骨。伝説の数々は今も語り継がれる。
[su_row] [su_column size=”1/2″] [/su_column] [su_column size=”1/2″] [/su_column][/su_row] 「革命が起きたぜ」。
リオデジャネイロのゲウジ画廊で展覧会の準備をしていた楠野友繁は耳を疑った。エイプリル・フールにはまだ早い。冗談ならばもう半日待て、と汗流すカリオカの友人に言いかけたが、それは本当だった。
一九六四年三月三十一日。ゴラル政権の左翼民族主義志向に反発する軍がクーデターで奪権、ゴラルを国外亡命に追い込む。
海の向こうでは中ソの対立が深刻化し、アメリカ軍による北ベトナムへの爆撃開始を翌年に控えていた。緊張を増す国際情勢と平行して起こった軍事クーデターに社会は大きく揺れていた。
楠野は展覧会の一時延期を余儀なくされる。反体制の匂いを秘めた前衛的な作品に検閲の手が伸びることを恐れたからだ。
しかし、国際的なアートの潮流は今や、パリではなく、ニューヨークから生まれ、応接間の飾り物としての美術の時代はとうに過ぎつつあった。結果、同時代性を帯びた作品にはたいていの場合、作家の強い意志と意見が込められていた。
金歯を売って絵の具を揃える
さまざまな美術運動(理論)が複雑多岐に展開される中で、この時期、日系美術の歴史にも新局面が訪れる。聖美会(一九三五年創立)を軸に日系画壇をもり立ててきた初期移民の画家たちに代わって、その弟子筋に当たる間部学や福島近といった世代がアブストラクト全盛を迎えるブラジル美術界の確固たるスターの座を獲得。六〇年以降は、続々と地球の反対側に活躍の場を求めてきた先の楠野や近藤敏、若林和男といった戦後移民の作家らへの注目も集まっていた。日本ですでに前衛美術運動に参加していた彼らは、着いて間もなく、一線として活躍できる力量があったのだ。
近代美術の古里・パリに目を移せば、第一回サンパウロ国際ビエンナーレ(一九五一)の翌年に開かれた第一回サロン聖美で大金賞を獲得したのをきっかけに渡仏した田中フラビオ・シローが抽象表現主義の作家として輝き始め、日系ブラジル人画家として初めて五一年にパリに渡った早熟の天才・森ジョルジュも相変わらずの異彩を放っていた。
ブラジル日系画壇がこうして百花繚乱のときにあり、コロニアが念願の文協ビル完成で沸いた六四年、かつて間部や森がメストレと慕った高岡由也はパラチに一時身を寄せていた。七五年に『カバロス・デ・ヨシヤ・タカオカ』(クルトリックス出版)を出すほど後に、「馬の高岡」としても知られることになる彼はこの風光明媚な土地をこよなく愛し、手遊びに馬の絵をしばしば描いていた。
高岡は当時、五十五歳。伝え聞く後輩作家の華やかな活躍などどこ吹く風と、じっくりと腰を据えて自分の信じた絵の道を歩んでいた。街を歩き、人と交わり、酒を飲み、イーゼルは路上に立てる。言ってしまえば前時代的なスタイルを依然固持していた。
金歯を売っても、いい絵の具はそろえたそうだ。垢で襟がテカテカになっている服を着たきり雀。靴底が口を開けていても紐でしばって平然と歩いていた。芸術の世界でさえも無頼という言葉が死語になりつつあった六四年にあってもまだそんな姿勢を貫いていた一人だった。
俗にブラジル美術史を振り返るとき、その三大史実として、十八世紀のアレイジャジーニョの彫刻、十九世紀にフランスからリオにやって来た美術ミッション、一九二二年の「セマナ・デ・アルテ・モデルナ」が喧伝される。これにもう二つ、三つ加えるならば、日系移民作家のブラジル美術への貢献を入れる余地は十分にある。ほとんどすべての初期移民作家はもう亡くなってしまったが、その功績は消えていない。そしてとりわけ、記録のみならず記憶にも残る作家として名前がまず挙がるのは高岡ではないか。
伝説は枚挙に暇がない。無二の画友玉木勇治と「ヌクレオ・ベルナルデリ」で絵を学ぶため、全財産であった腕時計を一つはめて、リオまで歩いていく(一九三四)。二週間の道中、イナズマと空腹と大雨に苦しみながらも、「ぬか泥の上で彼はいびきをかいて寝ていた」とは玉木の言。
無一文のため、リオ国立美術館の倉庫で寝泊まり。門番がカーニバルで休暇に入ったのを知らず、四日間、幽閉されてしまい、食わず飲まずで過ごしたとか。
サーカスの道化師をしたりして何とか食いつないでいた努力が報われ、一九三八年のリオナショナルサロンで、その自画像が銀メダル(外国人としては最高の賞)を獲得。も、つかの間、要塞そばでスケッチしているときにスパイ容疑で逮捕され、「あそこはよう要塞っていったってポンデアスカルから丸見えじゃねいか」。汚いこそ泥と一緒の豚箱を嫌った高岡は「スパイらしい待遇をしろ」と要求し、見事『独房』入り。サロンで賞を得たことを誇張し、「おれは大使よりも有名なんだぜ」。カピトンは「どこのサロン(床屋)だって」と一蹴。高岡は「エッセ・ア・ボア」と思わず爆笑してしまい、張り飛ばされたらしい。
反骨馬・高岡のエピソードの数々が走馬灯のように蘇る。二〇〇二年が午年ならば、彼の生き方と馬の絵を振り返ることから今年は始まる。と考え、パラチの石畳を踏んだ。
玉木は音楽、高岡は建築
その絵の世界の構築的な素晴らしさは、オゾリオ・セザルやセルジオ・ミレーなど一流の批評家らによって度々指摘されている通りだ。サンパウロ男子専門学校で机を並べた半田知雄は「玉木の絵が音楽だとすれば、高岡のは建築だ」と評した。
自画像の作家とも言われる。彼ほど質量ともに秀でた自画像を残した画家は見当たらない。その犀利な観察眼と的確な表現力で常に自分を見つめていた作家だった。
馬はどうか。打って変わって今度は墨絵のような軽やかさにひかれる。奔放に生きた彼のようにその馬は跳びはねているのだ。
旧市街の目抜き通りにあるレストラン「アベル」。高岡が一九六〇年と六四年に手掛けた四つの壁画が残る。彼が通った時代はバールで、場所もここではなかったが、壁画は移動させている。
高岡の親友だったアベルさんの姪レニウザさんが今の店主。「画家志望だった伯父は絵描きとはすぐ仲良しになりまして、高岡氏を含めてよくみんなで一緒に飲んだりしていました。馬の絵はプレゼント。友情の証しですね」と話す。レストランには高岡が描いたアベルさんの肖像画もかかっている。
すっかり観光地と化しているパラチだが、今もその風情を愛する絵描きが往来している。コロニアルな穏やかな風情が色濃く漂ったかつてはもっと多くのイーゼルが道に並んだ。高岡がしばしこのピンガの名産地に通ったのも、ここにはたくさんの絵描き友達がいたからだ。
けれど、六四年を境にその空気はガラリと変わった。左翼思想に傾倒していた高岡は顔見知りの警官に逮捕される。なぜか「中国人スパイ」として。義弟の森ジョルジュは「警官の裏切り。点数稼ぎで捕まった」と推測する。
古き良き時代は過ぎ去ろうとしていた。留置所での高岡はそれでも鼻歌を歌いながら壁に馬の絵を描いていたという。が、その歌声にはほんの少しだけ感傷が漂っていた。
一九七八年、絵一筋に人生を駆け抜けた高岡は命終。それは無頼と反骨で生きた駿馬の時代の終焉でもあった。この年がまた午年だったことは単なる偶然か。
天国の高岡は今ごろ、せっせと十二年振りの大作となる天馬の絵に取り組んでいるに違いない。夜空を見上げれば、ほら、銀河の彼方から鼻歌が聞こえてくる。(文中敬称略、小林大祐記者)