2003年1月1日(水)
「特に変ったところのない普通の子ですよ!」。日系社会史上初めて大臣を選ぶ側に回った日系政治家の父親はいう。まるではるか先まで進んでしまった息子を、等身大に引きもどそうとするかのように。具志堅ルイスさんの父・昌永さん(八二、沖縄県本部町字具志堅出身=写真左)は、マスコミに顔を出すことが本意でないことを前置きしながらも、率直に記者の質問に答えて感慨深げに語った。
■〃普通〃の幼年期■
「本当は、親としては日本語を習ってほしかったんです」。ルイスさんは三男四女の長男として一九五〇年八月五日、サンパウロ州オズワルド・クルース市に生まれた。その後もプレジデンテ・プルデンテで思春期を過ごす、という日系集団地にゆかりがあったが、日本語に興味を持ったことはなかった。
「根気のいい性格でしたが、時々、子どもにありがちな悪さをするもんだから、怒ったりしたもんです」と幼年期を懐かしむ。「どちらかというと外で遊ぶタイプの子でした。十一、十二歳の頃でしたか、木から落ちて両腕を折ったこともありました」。元気のいい子供時代を過ごしたようだ。「子どもの時に、野球の監督から呼び出しを受けたこともありましたが、友だちとサッカーをやっているほうが楽しかったようです」
■苦学生時代■
家庭の経済事情で十三歳から仕事をしていた。昌栄さんは「ジナジオ(中学)までは行かせなきゃ、というのが私の考えでした。でも〃大学はあんたの努力次第だ〃と言い聞かせてきました」と回想する。
プルデンテで、昼間は建築会社でオフィスボーイをしながら高校を夜学で卒業。「十四歳のころです。息子が建築現場に行ったら、材料がきてなくて、職工たちが手持ち無沙汰そうにブラブラしていたそうです。そこで、自分で必要な材料を買って仕事を続けさせた。〃Tem que trabalhar〃ってね。あとでパトロンから誉められたと、嬉しそうにいってました」。
高校卒業後、一九七〇年にバネスパ銀行の研修生試験に合格。出聖して昼間は銀行で働き、夜はゼットゥーリオ・ヴァルガス大学で経営学を学んだ。「独立心旺盛でした。子どものころから、自分で問題を解決する能力を身につけていたのかもしれません」。
■刑務所から脱走■
大学卒業後、バネスパ銀行職員組合の中で徐々に頭角をあらわした。〇二年十二月二十二日付エスタード紙によれば、軍事政権批判をするデモを組織していると疑われ、七九年十二月には政治経済警察に捕らえられた。一週間拘留された後、逃亡した経歴も持つ。そのため両親の自宅にまで連邦警察が家宅捜査にきた。
八五年の民政移管後、サンパウロ銀行職員組合会長を八四年から八六年まで務め、最初の政治的経歴をしるした。この組合活動を通してルーラと知り合った。銀行労組を支持母体に八七年から九八年まで三期(八七年、九〇年、九四年)続けて連邦下議に当選。
そんな八〇年当時、ブラジル銀行に勤務する妻エリザベッチ・レオネル・フェレイラさんと結婚し、二男一女をもうけた。
■大統領弾劾裁判■
八八年から八九年まで労働者党の総裁をつとめた。得意とする金融計算能力を駆使して、PCファリーアス(コーロル大統領の選挙参謀)の選挙資金の不正な集金経緯をあばいて査察委員会(CPI)の活動に貢献し、結果として九二年のコーロル大統領弾劾裁判につながる筋道を準備したことでも有名になった。
■議会への絶望と引退■
ルーラ候補たっての願いから、九八年大統領選では選挙参謀をつとめたが、選挙後は「政党幹部としての活動からは一切身を引く」とも宣言した。
「議会の大半は大統領府に従順すぎてやる気がそがれる」と九八年二月二十七日付エスタード紙は伝え、政治的経歴を捨てる決心をしたと報道した。「私の子どもは十四歳を頭に十二歳、十歳といるが、一度足りとも親らしく接してやれなかった。私は地方に住んでいるし日常業務は激烈だ。子どもの顔さえ見る時間がない」(同紙)。
■病、死■
「息子は今年の五、六月に胃のオペラして、それから十七キロも痩せたんです」と昌栄さんは辛そうに思い起こす。
さらに選挙直前の八月四日、母親の節子さんが高血圧の治療で入院していた病院で、院内感染して亡くなった。「入院当初は四、五日したら自宅に帰って、リハビリ七割、薬物治療三割で全快します、と医者が言ってたんですが…」(昌栄さん)。元気だった節子さんは一カ月もたたないうちに他界した。
■復活■
病魔と母の死を乗り越え、今回の選挙では副参謀として活躍した。ヴェージャ誌一七七六号の〃PT三銃士〃特集ではジョゼ・ジルセウ、アントニオ・パロッチとならんで扱われた。
「三人の中で最も目立たない日系人の具志堅氏は、ルーラが〃シーナ〃(中国人)と呼ぶ古い友で、一九七〇年代から労働組合仲間として活躍してきた。ルーラと具志堅氏は家族付き合いをしており、サンパウロ市ビリングス湖のルーラの別荘を訪れる、数少ないPT党員。また公の場で〃私は反対だ〃と唯一ルーラに立ち向かう男でもある」(同ヴェージャ誌)
昨年十二月十九日には正式な発表があり、大臣クラスの要職である大統領府広報局長官に就任することに決まった。
そんな息子に「こんなに偉くなるなんて、思ってもいなかった。政治なんてうまくいけば行くし、いかないこともある。あまりに責任重いことをやっている姿を見ていると…、うれしい反面、無事に職務をまっとうしてくれることを願うだけです」と、父は祈りに似た言葉を贈った。