山根寛一氏を知る人はもう少ない。戦前の日系社会で活躍した人物で農業界の指導者として知られマリリア管内に創設した「興農園」は余りにも有名だった。南米銀行の秘書室長を務め宮坂国人氏を支え続けた山根剛氏の尊父と言った方が通りが好いかもしれない。どんなに寒くとも暁闇の五時には起きての冷水摩擦を欠かさず朝食は「うどん」に決まっていた▼出勤前に日伯の新聞を読むのも日課で大のつく読書家と耳にもしている。土曜日ともなればリベルダーデに忽然と現れ友人の中林敏彦氏らとの会食が楽しみで老友たちの情報交換の場でもあった。公表されたものは少ないけれども達意の文をよくしパ紙で人気のあった「ボテコ」に寄稿した「鰯」についての食談義は名文と言っていい。尤も、若かりし頃は「青柳」に遊びにゆくと、こちらは決まって鱸の刺し身だったよと笑っていたし、鰯だけを食べていたのではあるまい▼所謂─銀行マンの型には嵌まらない。気性としては豪放磊落ながら細かい事にも実によく気がつく人だったし夜の遊びもまた賑やかすぎるほどに賑やかでとてもしかめっ面をした銀行マンの面影など微塵もない。恐らくは天性のものだろうが、この性格が人の輪を繋ぎ広がりを見せたのに違いない。洋服の着こなしがうまく、いつも身なりがきちんとしていたのも今は語り種となってしまったのは寂しい▼山根剛氏はそんな人であった。暮れも押し迫った三十日に脳溢血で倒れ一月の三日に逝去。享年八十八歳。 (遯)
03/01/09