1月10日(金)
【毎日新聞五日】リマで九六年十二月発生した日本大使公邸占拠事件について、東京に滞在中のペルーのフジモリ元大統領は毎日新聞の取材に応じ、当時の外交交渉や武力突入決定に至る背景を明らかにした。元大統領は、九七年二月の橋本首相(当時)との共同声明で「万が一の場合、ペルーは行動を起こす」とペルー側が解釈できる内容を盛り込み、武力突入の「許可」を事前に日本から引き出していたとの認識を示した。また突入の際に国軍兵士がトゥパクアマル革命運動(MRTA)メンバーを処刑したとの疑惑を全面否定した。
元大統領によると、事件発生一カ月後の九七年一月下旬、武力行使計画を練り始めた。このため同三十一日の橋本首相との会談(カナダ・トロント)で、共同声明に緊急時の武力行使容認を示唆する内容を入れるよう、事前交渉中の担当官に指示。日本側との徹夜交渉の結果、「平和的解決に向けては人質の健康の維持が不可欠」との一文を入れた。
「人質の健康の維持」の部分は、元大統領にとって「人質が危険な場合、武力行使する」という主張で合意したに等しく、後の武力行使の際、日本が反対出来ないようにするための支えになったという。国際法上、公邸にペルー軍は入れないうえ、多数の人質が犠牲になった場合に備え、「この許可を得ることが、日本との首脳会談の唯一の目的だった」(元大統領)という。
一方、日本側は会談後も一貫して「平和的解決」を主張。「声明で武力行使を容認したとは言えない立場」(外務省筋)で、武力突入も事前に知らされていなかった。
元大統領はこのほか、突入のために掘った地下トンネルから公邸内に特殊ガスを放出する計画があり、ガスや特殊武器の提供を日本側に求めたが拒否されたことを明らかにした。
一方、武力突入の際、国軍兵士が無抵抗のゲリラ兵士数人を銃で処刑したとの疑惑があり、現在、ペルー司法当局が当時の国軍兵士や幹部を刑事訴追しているが、元大統領は処刑疑惑について「一切なかった」と全面否定した。
◇フジモリ氏発言要旨
日本大使公邸占拠事件に関するフジモリ・ペルー元大統領の主な証言は次の通り。(肩書は当時)
■ゲリラとの交渉
ゲリラ関係者5~8人の釈放を提案したが、ゲリラ側が拒否し突入を決めた。この際、ゲリラは保証委員会(ゲリラとの交渉担当)の聖職者に汚い言葉を使った。
■日本との交渉
日本は平和解決を望んだが、金をゲリラに支払ったり、収監中のゲリラの大量釈放が条件なら、悪しき前例を残す可能性があった。日本は積極的に事件に関与したくないような印象も受けた。
日ペルー首脳会談(九七年二月)の最大の目的は、万が一の際、ペルーが軍事行動を取れるよう「お墨付き」を日本から得ることだった。橋本首相に「何らかの形で(武力行使の)許可が欲しい」と求めた。何としても「許可」が必要で、それを意味する文面を声明にもぐりこませた。
■トンネルと武器
自分の発案で九七年二月七日、公邸までトンネルを掘ることを決定。鉱山技術者二十四人が手作業で掘削を続けた。日本の警察担当者(現地)に特殊な武器や爆弾、特殊ガスの提供を求めたが断られた。突入で使ったプラスチック爆弾は二階の人質を殺傷せず、一階のゲリラにだけダメージを与えるよう三キロ強のものを使った。
■突入
突入計画は軍の専門家三人と私で練った。トンネル(本坑二本)で爆弾を爆発させ、音響と爆風でゲリラを無力化する作戦。爆風が垂直に上昇し、より効果を発揮できるように工夫した。
突入ではゲリラ幹部を爆発で無力化するのが絶対条件だった。当日、幹部十人が一階にいるとの情報で突入を命じた。ゲリラの死傷者は予測していた。
◇ペルー大使公邸占拠事件
九六年十二月十七日、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)のメンバー十四人が在リマ日本大使公邸を襲撃、青木盛久大使らを人質に仲間のゲリラの釈放を要求した。九七年四月二十二日、国軍特殊部隊が突入、人質七十一人を救出したがペルー人人質一人と特殊部隊員二人が死亡、MRTAメンバーは全員死亡した。