1月24日(金)
ジョゼ・デ・アンシエッタ司祭は一五五三年五月八日、ポルトガルからブラジル行きの帆船に乗船、当時としては珍しく穏やかな航海を経て同年七月十三日、ブラジルの首都バイア州サルバドール港へ到着した。
司祭はその後、悪天候のなか海路南下してバイア州のアブローリョス列島付近で嵐に遭い、帆船は岩礁に叩きつけられ大破するが九死に一生を得た。別の船に乗り換え航行を続け、サンヴィセンテ沖合で座礁して全員船を降り、泳いで上陸する。
一行は空腹を耐え、飲み水と食料とねぐら探しに奔走した。幸い一人の原住民が一行に遭遇、未知の珍客を厚くもてなす。サンヴィセンテの草分けは一五三二年、マルチン・アフォンソ・デ・ソウザであった。その後サンヴィセンテは急成長して村落をなし、ブラジル南部の最大拠点となった。
数日にわたるサンヴィセンテ滞在の後、アンシエッタ一行は目的地を目指した。今日セーラ・ド・マールといわれる山道をトゥピニキンス族の案内でクバトン近くのピアサゲーラから山脈を上ってモジ川の渓谷を伝ってサンパウロ市に向かった。
一帯はうっそうとした海岸山脈の密林に覆われ、一行はあぶの攻撃に悩まされた。悪戦苦闘の末、司祭らはグアイアナ族の村落で十字架を建てて一泊した。今日のラルゴ・デ・ピニェイロスとされている。さらに二十キロ歩いて、ピラチニンガの丘へたどりついた。
これが現在、セー広場からボア・ヴィスタ街に通じる旧市街一帯とされる。翌日の一五五四年一月二十五日、トゥピニキンス族の村落で記念礼拝が行われ、サンパウロ市の創設記念日と制定された。一月二十五日はパウロのダマスコ途上回心の日であることに因んで聖パウロの地と命名され、ピラチニンガからサンパウロへ改名した。