さきごろの福島県人会総会の件で、県人会の「公」と「私」について考えさせられた。総会が公開されなかったからである。現金盗難事件の後始末が議題にのる会議を〃他人〃に見せたくなかったのだ。会費を完納した会員だけで総会が成立するので、内輪の催しだと執行部は定款を解釈したようだ▼だが、待てよ、である。福島県人会が「ファミリア福島」なら、他人に覗かれては困る、という言い方も成り立つだろう。人々だってたって覗こうとしない▼県人会というものの現在の有り様は、ブラジルにおいては事業、行事に一般(他人)の参加を請う。広報には報道機関の機能を借りる。母県からは補助をしてもらっている。創立記念祝典といった節目にはご祝儀を受ける。これは公金である。昨年、これが盗難に遭った▼出した側は、そのお金がどのようになったか知る権利がある。もらった側は知らせる義務がある。県人会が催したイベントに協力した一般にしても、その後を知りたい。こういう状態を開かれている、という。つまり「公」だ▼邦字紙が盗難事件の発生やその後始末について報道すると、時間を置かずに日本の人たちもインターネットでそれを知る時代である。邦字紙は、その媒体(なかだち)なのだ▼さきの総会では媒体による取材が拒否された。定款で、県人会の名において生じた損害は個人的に責任は負わない、とあれば、それはそれで説明になっただろう。なにも隠したりすることはなかった。(神)
03/02/07