ホーム | 連載 | 2003年 | 越境する日本文化 ボーイスカウト | 越境する日本文化 ボーイスカウト(2)=カラムルー隊発足=バウー訓練所設立へ

越境する日本文化 ボーイスカウト(2)=カラムルー隊発足=バウー訓練所設立へ

2月12日(水)

 ボーイスカウト運動に取りつかれた細江は医師の仕事のかたわら、関連書物を読み漁り、ブラジル連盟の研修会にも参加し、この運動への理解のため勉強を重ねた。
 その意志に同調する形で集まったのは大和会のメンバーでもあった小副川ルイス良三、大竹潮、伝田英二、阿部弥門、上野正二、花城ジョルジ、同仁会所属の医師たちである。
 ブラジル初の日系ボーイスカウト隊は五三年三月五日に歯科医を営む小副川の診療所があったビル(メルクリオ街五六四番)で発隊式を行った。名称はカラムルー隊。サンパウロで二十六番目に発足した隊である。発足メンバーは二十四名であった。
 隊員は邦字新聞などでの広報活動や紹介ですぐに集まり、翌年には事務局をグリセリオ街二五一番に移転している。
 カラムルー隊は八一年にアクリマソン区のジョゼー・ド・パトロシニオ街五五〇番(現在の本部)に落ち着くまでに六回の移転を行っている。
 隊員は増える一方であったが、細江にはある危惧があった。子供たちを指導する指導者たちの絶対的不足である。
 元来、日本の青年をブラジルにーという思いのあった細江はすでに知り合っていた小畑博昭(元援護協会事務局長)の発案で日本から、ボーイスカウト経験者を呼び寄せるという方法を取った。
 ボーイスカウト移民の募集はボーイスカウト日本連盟が出版する機関紙に掲載された。
 細江にはもう一つの考えがあった。それはボーイスカウトの主な活動場所となるキャンプ活動も可能な場所の確保である。
 細江は所有していたカンポス・ド・ジョルドンにボーイスカウト訓練所を建設することを計画し、日本からブラジルに夢をもってやってきた新来青年たちは訓練所設営の役を与えられたのである。ー敬称略―
  ◇
 ブラジルのボーイスカウト運動の起こりは訪英した二人のブラジル人に起因する。
 一九〇九年にイギリスに発注されたブラジル軍艦の建造監督に当たった海軍士官オリンピオ・デ・アルメイダとサンパウロの医師マリオ・カルジンである。英国滞在中にボーイスカウト運動に触れ、その理念に感銘を受けた二人は帰国後ボーイスカウトの設立に奔走した。
 一九一四年十一月二十九日にサンパウロのレプブリカ広場でブラジルボーイスカウト協会の創立式が挙行された。
 現在のブラジルのスカウト人口は約六万人である。 
(堀江剛史記者)

■越境する日本文化 ボーイスカウト(1)=戦後、日系二世たちの方向づけ=勝ち負け抗争がきっかけ

■越境する日本文化 ボーイスカウト(2)=カラムルー隊発足=バウー訓練所設立へ

■越境する日本文化 ボーイスカウト(3)=訓練所は自然解散=細江氏の理想理解されず

■越境する日本文化 ボーイスカウト(4)=第17世界ジャンボリー 閉式の辞はブラジル代表=世界に認められた日系隊

■越境する日本文化 ボーイスカウト(5)=日系隊を支える親たち=国際舞台ではブラジル代表