2月13日(木)
五六年から始まったバウー訓練所、そして数年後のアルジャー訓練所の創設にはボーイスカウト移民を始め、すでに来伯していた青年、別の理由で細江に呼び寄せられた青年たちも加わった約五十人が携わっている。
初期のバウーでは制服を着て、野外技能を取り入れたハイキングを行ったり、スカウティング・フォア・ボーイズ(一九〇七年にベーデン・パウエルによって著された。スカウト理念や野外生活法が平易に書かれており、当時の子供たちの心をつかみベストセラーとなったボーイスカウトのバイブル。日本の武士道や道徳などにも触れているところが興味深い)の読書会を開いたりというスカウト活動を行っている。
しかし時が経つにつれて青年たちは養鶏やニンジン作りなどに追われ、月に数回フェイラに売りに行き、帰りに日用品や種子を買って帰るという生活を送るようになる。正に開拓生活であった。
戦後の農業経験もない青年たちがその状況に満足していたか。答えは否である。
精神不安定な状態に陥った青年たちの間には自問自答が常にあった。
「何故こんなことをしているのか」「こんな筈ではなかった」「自分たちはこれからどうなるのか」。
鬱々とした空気が蔓延し、血気盛んな二十代の若者のこと、いざこざも多かったという。
第一回ボーイスカウト移民としてやって来た内田克明は「訓練所創設計画が完遂できなかった理由」として『細江静男先生とその偉業』の中で経済的な理由を挙げている。
「細江先生の医業(原文ママ)活動による収入の一部をボーイスカウトの生活費に充てることが多くなりー(略)―最後には、細江先生ご家族の財政面まで相当に圧迫したと思われる」
そして最も注目すべきことは一カ月に一度訓練所を訪れる程度の細江と青年たちとの意志疎通が極度に少なかったことも挙げられるだろう。ボーイスカウト移民としてやってきた青年たちは一様に「細江自身から説明やその理念を聞いたことはなかった」と証言する。
青年のだれも細江の描いているヴィジョンを理解していなかったー。
当時すでに大所帯になっていたカラムルー隊との関わりも年に数回同地で行われるキャンプでしかなかった。
創立当時からカラムルー隊のスカウトであった阿部カズオは「日本から来た青年たちが訓練所を作っているということは知っていたが、彼たちに関する記憶はあまりない」と当時を振り返り、「やはり言葉の問題が大きかったのでは」と指摘する。
何故細江はサンパウロで活動していたカラムルー隊と青年たちを積極的に交流させなかったのかー。
当時アルジャーの隊長だった小畑は「細江先生は猪突猛進タイプで自分の考えていることを人に話すような人ではなかった。しかし、日本の若き青年にまず移民たちの辿ってきた生活を体験させ、全てはブラジルに慣れてからという思いがあったのでは」と推測する。
そのころには援護協会、巡回診療などで多忙になっていた細江自身も訓練所建設への情熱を失っていたのだろう、青年たちに職業の斡旋を行ったりもしている。
バウーはアルジャーに吸収され、六三年頃には訓練所計画は頓挫してしまう。あるものはアマゾンへ、またあるものはサンパウロへと訓練所を後にし、自然に解散となったのであった。
ボーイスカウト移民とカラムルー隊という同人物によって始まった二つの流れは互いに合流することなく、一方は隆盛を極め、もう一方はブラジルの大地に溶け込んでいったのであった。 ー敬称略―
◇
アルジャー訓練所にも約一年滞在し、細江の巡回診療に助手として参加、臨終にも立ち会った岩中徹は記者に語った。
「細江先生にとっては期待をかけた青年たちへの失望、訓練所の設営が完遂できなかった悔恨もあったろうが、それを最後まで口にした事はなかった」。
(堀江剛史記者)
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