2月14日(金)
半世紀にわたって、水泳を通した人間教育に人生を捧げ、十年前に九十三歳で逝った佐藤貫一さん(大分県出身)の教え子たちがいま、その信念を引き継ごうと、故人の名前を掲げた教育センターの設立に向けて動いている。佐藤さんは四八年のロンドン・オリンピックにブラジル代表選手を送り出すなど、ときの「水泳大国ニッポン」から来たコーチとして活躍した。その後は、「チャンピオンよりも人間をつくりたい」と、リオブランコ校などの名門校の学生を指導。教育者で詩人のスイマーとして、慕われた存在だった。センターでは法人登録が済むのを待って、恩師の蒔いた種を広め育てていきたい考えだ。
都心の一角にこんな環境のプールがあるとは。田舎で暮らした、子供のころを思い出した。頭上に広がる入道雲、生い茂る樹木、水のしぶきが光りまばゆい。
「みんなパパを思い出して来てくれているんですよ」
佐藤さんの長女、千鶴さん(六五)。サンパウロ大学医学部の敷地内にあるスポーツクラブのプールを借り、父親の始めたレッスンを受け持っている。夏は毎日。ほかの季節は週に三回になる。午前六時からの三時間半の間、出勤・通学前の一泳ぎが可能だ。貫一さんの時代から通う、と話す人が大半を占める。
中には親子三代も。久保昌子さん(八〇)は「ここのいいところはアカデミアと違って、『ただ泳げ』と言わないこと。屋外で伸び伸びと出来るのもいいわ」。むかしは息子、いまは孫の手を取ってやってくる。
二八年、東農大出身の佐藤さんはパラナ州のカフェザールに入植した。しかし翌年以降、カフェ価格が暴落。サンパウロへ出る。
東京のYMCAなどで指導をしていた経験を持つことから、サンパウロ州水泳連盟のコーチに招待された。当時、日本はオリンピックでも屈指の強豪国。佐藤さんへの期待は大きかった。
「父が指導した四一年の南米選手権でブラジルは初めて勝ちました。その後は四八年のロンドン・オリンピックへ出場する選手を育てた」と千鶴さん。
戦後間もなかったため、日本人である佐藤さんはオリンピック選手団に同行出来なかったというが、ブラジル水泳界のレベル底上げに貢献した一人であったことは疑えないようだ。
タイムを伸ばすより、それぞれの個性を引き出したい―と指導哲学を変えるのはその後。リオブランコ、サンベント、ポルトセグーロといったサンパウロ市の名門校で、授業を開始。すると、富裕層の子弟にも、「自分の使うところは自分できれいにしろ」としつけ、プール掃除まで徹底させた。
「サンパウロのおれのメストレはサトウと言った」
飛び込みの選手だった千鶴さんが昔、サルヴァドールに遠征に出掛けたときのこと。レストランで偶然出会ったアントニオ・カルロス・マガリャンエスが日本人の千鶴さんを見て、そんな風に声をかけてきた。サンベント校時代の話だという。「それはわたしの父ですよ」。いまや政界の実力者も、佐藤さんの教えを受けていたことが分かった。
水はすべてのものが出会い、絡む場所。そんな中で、自分の肉体と精神ベストを探れ。自然との相互依存関係を意識しながら、だ。そんなことをよく諭していた。「本当の競争相手は自分の中にある」とも。
ただ泳ぐだけでは飽き足らない人が佐藤さんの開く水泳教室に集まった。医者、建築家、大学教授、とインテリが多いのもうなづける。
『サトウ。オ・ポエタ、ナダドール』(アゴラ出版)を書いたアナ・フィゲレイドさんは「佐藤は信仰と愛に満ちた本当のメストレだった」としのぶ。
『詩人(オ・ポエタ)』とした所以を問うと、「ファゼンダはファゼンデイロが所有するが、その風景は詩人のもの」とした佐藤さんの言葉にある、と明かしてくれた。
アカデミアが市内に増えてきてからは、「生徒の数も次第に減ってきた」。千鶴さんは漏らす。それでも、没後十年を記念してセンター設立の声が上がるなど、佐藤さんへの尊敬の念はまだまだ強く息づく。
「黒沢明監督の映画『まあだだよ』みたいなものですね」と、千鶴さんは例えた。