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「日伯交流で役立ちたい」=田港さん デカセギ体験生かして=帰国子弟の待遇改善を陳情=4月にはホームページ開設へ

2月19日(水)

 「日本とブラジルの交流のために何かしたい」――。七年間のデカセギ生活にピリオドを打って一九九七年に帰国し、浄水器販売会社を開いたデカセギ起業家・田港アウベルト(三九、三世)さんは常々そう考えている。帰国後、デカセギ帰国子弟の待遇改善を求めてブラジリアに陳情に行ったり、一年半前からはフットサル交流のブラジル側窓口をボランティアではじめた。この四月からは、日伯交流ホームページを開設し、ブラジルに対する理解を促進しようとしている。
 「ただ生まれて死ぬだけの人でなく、社会の役にたつ人になれ!」。父はいつも息子に語っていた。
 大学を卒業した田港さんは家庭用サウナ機の製造・販売を目指し、六十人の販売員を抱え、試作品を三十五種類も作って本生産に入る直前、九〇年のコーロル・ショックにより会社が立ち行かなくなり、八月にデカセギに向かった。妻の親戚がすでに就労していた群馬県大泉町だった。
 丘山産業に直接雇用の工員として働きはじめたが、社長に気に入られ、近くの味の素群馬工場の〃総務課〃を紹介してもらった。「工員じゃなくて事務員なんて、あの頃ほとんどいなかったから、珍しがられました」。しかし、持ち前の独立心から九四年にはレンタル・ビデオ店を開店した。「工場の日本人には本当に良くしてもらいましたが、自分の商売を始めるのが小さい頃からの夢でした」。
 ちょうとデカセギが激増している時期と重なり、順調に業績は拡大。日本にはパン屋、JALグッズ店など四店、ブラジルにもビデオ店を二店開店した。九五年十二月からは『ブラジル・トロピカル』というポ語月刊雑誌(翌年に廃刊)まで作った。「ただ、もともとブラジルで生活するつもりだったので、子どもが小学校へ入る年を考えて、帰国することにしました」。
 九九年六月二十日にはビデオ・レンタル店の関係で、群馬県警生活環境課と大泉署に著作隣接権侵害の疑いで逮捕される事件が起きた。田港さんの人柄を良く知る大泉町国際交流協会の山崎博利会長らが刑軽減嘆願書を千人以上集め、罰金五十万円の略式裁判で釈放になった。「あの時は本当に大変でした…」。
 当時はTVグローボの日本での国際放送がはじまったばかり。その放映権を買った会社が、全国の日系ビデオ・レンタル店を目の仇にし、リーダー格であった田港さんを見せしめに訴えたと言う関係者もいる。
 それにもめげず、田港さんは同九九年から、カッポン・ボニート市の田村ロベルト市長らと組んで、デカセギ帰国子弟問題にも取組んでいる。その頃は日本で通っていた学年で、ブラジルの学校に転入することが認められていないところがあった。教育文化省にも手弁当で陳情にいった。
 〇〇年からフットサル交流の窓口も始めた。一月に、サンベルナルド・ド・カンポ市で日本とブラジルの代表チームの親善試合があったが、日本側選手十二人中八人は以前、田港さんらの受け入れで一週間ほど滞伯し、ブラジル代表監督から直々の指導を受けていた選手たちだった。
 「明日もデカセギの帰国後の問題について、州政府関係者と会う予定です」。十二日に取材した浄水器販売会社Suisenの事務所で、田港さんは語った。今週の金、土、日曜に沖縄県人会館で開かれる沖縄物産展にも出品する。日ポ両語による日伯交流サイト(www.brasilnippon.com)は四月から開始予定だ。