2月22日(土)
ラジオ・サントアマーロ(当時:奥原康栄社長)創立十周年記念で、歌手、西郷輝彦がシネ・ニテロイでショーを行なった。一九六七年九月のことだ。
コロニア芸能史上最高のショーと称されたこの企画、関係者の目はある一点に集中していた。西郷は各公演中、テープによる伴奏で数曲歌ったのだ。
カラオケは、クラリオンが七五年、伴奏テープを開発、「カラオケ8(ML─4000A)」と命名したことに由来する。その八年前のことで、まだ、「カラオケ」という言葉は存在していなかった。
西郷は当時、橋幸夫、舟木一夫とともに御三家と呼ばれた。人気絶頂の時期にあり、歌謡界と高度成長期の日本を引っ張った。
日系コロニアに、鳴り物入りで登場。同月五日に来伯したおり、多くのファンがコンゴニャス空港に詰め掛けた。
この事業に関わった金子ロベルトさんによると、テープによる演奏で歌うと宣伝したため、公演前から、観客の期待を集めていた。
公演は七日から十二日まで計二十回。十七日には、「お別れショー」も追加された。テープによる演奏が歌と合うのか、主催者側は半信半疑で舞台を見守った。
リズムやテンポが狂うことは全くなく、全てのスケジュールを難なくこなした。
金子さんは、「上手くいったのでみんな驚いた。このとき初めてカラオケを知った」と、振り返る。
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西郷が来伯した六七年は、カラオケ産業では、黎明期に当たる。
同年、八トラック式小型ジュークボックス「ミュージックボックス」が発売。これに、マイク入力が付いて、カラオケの原型が誕生した。
ミュージックボックスをBGM再生として利用したり、軽音楽テープなどを使い、マイクで歌わせる店が現れた。
西郷が日本の流行をいち早く、ブラジルに伝えたと、金子さんはみる。コロニアのカラオケブームに火をつけたのは西郷だというのが金子さんの意見だ。
軽音楽テープが聞くことを目的としているなら、カラオケテープは歌うことに主眼が置かれる。
つまり、プロ歌手でなく、素人が歌いやすいようにアレンジされているということだ。
素人を対象にした伴奏テープは七〇年、大洋レコードより発売された。
翌七一年に、クレセント創業者の井上大祐氏がスプリングエコー、コインタイマー内蔵のマイク端子付き八トラックプレーヤーを制作。伴奏テープ十巻(四十曲)をセットして店舗へレンタルを開始した。
その後、ソフト、ハードメーカーが相次いで参入、急速に普及していった。ブラジルには、カラオケレコードが七五年に、上陸した。
そして、二年後の七七年十一月、ブラジル初のカラオケスナック「どんぐり」が、開業する。=敬称略=。
(古杉征己記者)
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