2月26日(水)
開店パーティーは開かなかった。ただ、「カラオケ知っていますか、近日中開店」と、邦字紙に広告を掲載した。
その効果があったのか、駐在員の間に口コミでかなり評判が広がっていた。三十─四十人収容可能な店内は開店後まもなく、来客でごった返すようになった。地面に座ってでも店に入りたいという客まで出た。
駐伯日本大使やサンパウロ総領事をはじめ、春日八郎、並木路子、五木ひろしなど日本の歌手も、顔を見せた。
「奥さんたちが来れる店にしよう」と、ホステスは置かず、ダンスも禁じた。明るい雰囲気になるよう、照明に気を使った。酔って騒いだり、女性に言い寄る客がいたら、目線で注意した。
当初は、男性客が多かった。店の様子や雰囲気を知った夫が妻にも声を掛けた。夫婦同伴の客も徐々に、目立ち始めた。
人前で歌うのを恥ずかしがる夫婦もおり、こちらから、デュエットをしようと誘った。当時の定番は、「東京ナイトクラブ」と「銀座の恋の物語」。「一晩にそれぞれ、十回以上歌った」。
やはり、主婦は子育てと夫の世話に追われ、孤独な日々を送っていた。「自分の選択は間違っていなかった」と、胸を撫で下ろした。
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店の評判はやがて、コロニアにも届き、日系移住者たちも出入りし始めた。「コロニアの人は酒癖が悪かった」。
背後から腰を抱かれた時には、振り向きざまに平手打ちをくらわした。歌っている総領事にソファーのクッションを投げつける客もいた。問題のある行動をとったら、徹底的に喧嘩をした。
付け払いは一切、断った。無銭飲食をして逃げていった客をブリガデイロ通りまで追いかけていき、店に連れ戻したこともある。
「校長先生みたいだな」と揶揄されたが、逆に、店の信用は高まった。半年後には、高級スナックとして、地位を固めた。とりあえず、目的は達成できたと、店に出るのをやめた。
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カラオケスナックは七九年に、七軒ほど、八二年には三十八軒に増えた。どんぐりに通っていた客が分散し始めた。ママのいなくなった店では、客のレベルも下がっていった。
テナントの所有者が神父で、カラオケスナックを深夜まで営業するのは宗教上、好ましくないと、圧力をかけた。開店十年後の八七年、店仕舞いを決意した。
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あれから、十五年後、ママの姿はリベルダーデ区にある。九七年に、楽呑会を立ち上げ、毎週水曜日、グロリア街のバールで友人たちと、談笑している。
「来るものは拒まず、去るものは追わず」が会のモットー。毎回、数人から十数人が集まり、世間話や情報交換をするという。
「移住者の酒乱ぶりには悩まされた」という石坂さん。店を開けたことがきっかけで、多くの友人が出来た。今は、コロニアの人になった。
(古杉征己記者)
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