2月26日(水)
★パレードの総監督★
〃カルナヴァレスコ〃という言葉を聞いたことがあるだろうか。世界一華やかなパレードをつかさどる総監督的な役割のことだ。パレード全体の配列や配色から、アレゴリア(山車)やファンタジア(衣装)のデザイン、特殊効果など各種演出までを担当する。
そのカルナヴァレスコをサンパウロのグルッポ・エスペシャルのエスコーラ・デ・サンバ「ヴァイ・ヴァイ」で六年間も務め、うち二回優勝した輝かしい経歴をもつ日系人がいる。
USP都市計画・建築学部の助教授、成戸稔(なると・みのる、二世、六〇)さんだ。彼がコミッソン・デ・カルナヴァル(カルナヴァレスコのグループ)に入ったのは一九八〇年のこと。まずイタリア系友人が同コミッソンに呼ばれ、その友人が成戸夫妻を誘った。
「もともとアフリカ系ブラジル人の文化、例えばカンドンブレとかには興味があったから、いろいろ話を聞いたりしていた。それを知っていた友人が誘ったんだ。ま、サンバというブラジル文化の世界に、アフリカ文化という〃裏口から入った〃ようなもんだったけどね」と笑う。
★古き良き時代★
当時は、サンバ・パレード専用会場のサンボードロモがなく、チラデンテス大通りを区切って仮設会場にしていた。まだ多くのエスコーラは、一昔前のコルダンの雰囲気を残し、商業化してない〃古き良き時代〃だった。
現在のカルナヴァレスコは花形職業で、前年に優勝したエスコーラのそれは、高額で引き抜かれたりする。でも、成戸さんの頃はまだ無償の時代。「月に五十時間はエスコーラのために働いていたけど、全てボランティアでした。金のやり取りがあると別の関係が生じてしまうしね」。
同コミッソン五人の中には有名なサンビスタ、ジェラウド・フィウミがいた。「まだサンバをやりながら朝を迎えたことのない人は、ビッシーガ(ヴァイ・ヴァイのあるベラ・ヴィスタ地区の愛称)へ見にいってごらん。…ホコリのたつ道はアスファルトになって、高層ビルが立ち並び、すっかり町は変ってしまったけど、あそこにはまだ、昔のなごりがしっかり残っている」とは、彼の有名なサンバの一節――。
成戸さんは、本番前には何日も何日も本部に泊り込んで、作業の指示を出しながら朝を迎えた。この詩を地でいく世界だった。「とてもいい経験で、今でもその価値があったと思ってます。良い時代でした」と懐かしむ。
★黒人文化と日本文化★
成戸さんはサンパウロ市郊外で生まれ、七歳までは日本人に囲まれて生活していた関係で、日本語書籍も読みこなす。八歳から学校でポ語を学習しはじめ、あっという間に人並み以上に。「それでも、自分の発音は完璧ではないと感じることが、今でもある」と述懐する。そんな自らを突き詰める先に、ブラジル社会への深い視線があった。
大学では民族文化に興味をもった。「ブラジルってなんだろう。よりブラジル的な文化とはと考えた時、黒人のそれに特に興味を覚えました」。合わせ鏡のように、日本の文化論もよく読んだという。
「中根千枝(東大名誉教授、日本の社会人類学研究の第一人者)の『タテ社会の人間関係』にもあるように、日本人には〃出る杭は打たれる〃的な文化がある。勤労を尊ぶ価値観から、その古い考えを持ち込んだ移民や、その影響を強く受けた日系人にとって、カルナヴァルはただのバカ騒ぎとしか思われおらず、無価値だった」と分析する。
「多くの二世は昔の日本人気質を受け継いでいるから、二世でディスタッキ(山車の上の花形ダンサー)の格好をしているものは、日本から来ている日本人より少ない。それに男性の場合、二世は早く良い職について家庭を支えなければならなかったから、エスコーラに通うのは怠け者と周りに思われ、できなかったのだと思う」と同じ世代を代弁する。
■サンバの先駆者■
おそらく彼がグルッポ・エスペシャルでは最初の日系カルナヴァレスコだ。二世の文化的トラウマを乗り越えて、黒人文化としてのカルナヴァルに傾倒した先駆者ではないだろうか。
(深沢正雪記者)
■カルナヴァルと日系人(1)=「ボヘミアンな父でした」=日系初のサンビスタは戦前移民
■カルナヴァルと日系人(2)=見ると出るでは大違い=「日本人にサンバが分かるの?」
■カルナヴァルと日系人(3)=日系初のカルナヴァレスコ=ヴァイ・ヴァイで2度優勝
■カルナヴァルと日系人(4)=サンバ魂は三世から!?=両親大反対だった大衆音楽研究
■カルナヴァルと日系人(5)=バロッカ・ゾーナ・スル=日本人にもできる=『移民75周年』で仲間入り
■カルナヴァルと日系人(6)=フロール・ダ・ペーニャ=囃子響かせ笠戸丸行進=「リオで大江山の鬼行列」と構想
■カルナヴァルと日系人(終)=ヴァイ・ヴァイ=移民90年忍者と芸者とラジオ体操=日本民族文化からブラジル民俗へ
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