3月6日(木)
「お兄さん、苦労したんだね」。岩本茂さん(七二、兵庫県出身)が一日、四十七年ぶりに、弟の福太さん(六八、米・ロサンゼルス市在住)に対面した。世界アマチュア歌謡祭(ブラジル日本歌謡連盟主催)が二日、文協記念講堂で開かれ、福太さんが同伴者として参加。二人の再会が実現した。茂さんが一九五五年に渡伯した際、神戸港で別れて以来。「功上がらずば、帰らず」と、茂さんは新天地での生活にかけた。道は険しく、実家と音信が途絶えていた。福太さんは長年の労をねぎらった。
パウリスタプラザホテルの地階ロビー。一日午前十一時三十分すぎ、福太さん夫婦が姿を見せた。
「お兄さん!」。
茂さんに駆け寄り、抱き付いた。
「元気だった。頭の毛がなくなって。大学二年の時、港でさよならいうて以来じゃね」。
そのまま、ソファーに座りこんで、近況を報告しあった。茂さんが、「孫は六人いるよ」と、言えば、福太さんは、「それはいいな」と、喜んだ。
兄が、「もう、人生の仕上げの段階。まだがんばらにゃいかん」と諭せば、「僕もやるよ」と、弟は頷いていた。二人の間に、空白の時間は感じさせない。
再会を前に、茂さんは、「別に感激なんかありません」と、さばさばした口調で語っていた。
肉親との四十七年ぶりの対面。話は尽きない。話題は移住後の生活に移った。 パラナ州カンバラで農場監督に雇われ、その後、独立、セラードでゴマを栽培したなどと、これまでの人生の歩みを紹介した。
福太さんは、「ほんとこれ苦労した顔や」と、兄の健康を気遣っていた。
渡伯後十年ぐらいは、子供やコーヒー園の写真を実家に送っていた。マトグロッソに移ったあたりから、音沙汰はなくなった。生活が苦しくなったからだ。
妻、ふきこさん(七〇)は五、六回、里帰りをした。茂さんは家族に合わせる顔がないと、帰省しなかった。
福太さんは大学を卒業後、積水化学に入社。六二年にニューヨークに赴任、その後、ロスに移転した。六九年に帰国を命じる辞令が発せられたが応じず、退社、そのままロスに残った。
茂さんは数年前より、アガリクスの製造、販売を手掛けている。生活は落ち着きようやく、親せきとのやりとりが再開した。
ロスで保険代理店を営む福太さんは新たに、会社を設立、健康食品の販売に乗り出す。もちろん、茂さんの商品をアメリカに輸入する考えだ。
福太さんは、「これまでは、離れ離れだったけど、これからは、一緒」と、カラオケの取り持った縁に感謝している。