3月7日(金)
コチア青年移民、産業開発青年隊、花嫁移民――。今年は戦後に移住が再開されてから五十年の節目に当たる。
戦前から日系人が普及させてきた野球は、「新来」として来伯した移民にとって、慣れない新天地での娯楽だけでなく、既に確固たる地位を築きつつあった日系人との交流を深めるための道具でもあった。
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「次の休日に野球やるから来い。一丁、腕を見てやろうじゃないか」
移住再開からまもない五七年、高校卒業直後に農業移民として家族らと来伯した渥美清は、最初に入植したマリリア市でいきなり野球の誘いを受けた。
渥美は神奈川県鎌倉高校で、長身のエースとして活躍。憧れだった甲子園のマウンドには立てなかったが、国鉄スワローズの入団試験に挑戦した経歴を聞きつけた同市の野球関係者が、渥美をコロニア野球に誘い込んだ。
渥美自身、来伯後も野球を続けようと、使い慣れたグラブを持参していた。
日本での野球経験を持つ新来移民は、そのプライドのため一世や二世の選手と衝突し、チームに溶け込めないことも多かった。「農業の合間に野球が出来るだけでも楽しかった」。その純粋さのお陰で、渥美は何の問題もなくチームに受け入れられた。
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「今みたいに何の娯楽もない時代。異文化の中で、自分が大好きだった野球は最高の慰めでした」と渥美は当時を振り返る。
日曜のたびに町にある数少ないトラックの荷台に乗り込み、隣町まで遠征試合に行くことが日系人にとって相撲と並ぶ数少ない楽しみだった。
ただ、相撲と異なり団体競技の野球は地域と地域の対抗意識をぶつけ合う最高の道具だった。「北パラナなど景気のよかった地方は、後援者が金を負担して合宿までする力の入れようだった」と渥美。
ある試合では、試合に遅れて見逃した後援者の「もう一試合やってくれ」という頼みで再試合を経験。コロニア野球での後援者の影響力を知った。
鎌倉高校で教えを受けていたコーチが、ブラジルで一時指導していたこともあり、来伯前から日系社会の野球熱についての予備知識があった渥美だが、日本と違い雨が降っても試合が中断しないことには驚かされたという。
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小学校四年で野球を始めて以来、ずっと投手だった渥美だが来伯直後に雨中の試合で登板し続けたため、肩を壊して一塁手に転向。来伯直後、「全伯選抜野球大会」にセントラルの一員として出場していた。
当時の野球人の憧れだった選抜大会でも優勝経験など数多くの思い出を持つ渥美だが、忘れられない試合がある。
五八年七月二十日、ボン・レチーロ球場は、渥美にとっての甲子園となった。
移民五十周年を記念して来伯した早稲田大学野球部が、各地の代表などと十六試合を行った。
日本野球の最先端を行く大学野球の名門に、コロニア野球は歯が立たず十六戦全敗。ただ、一矢を報いたのが渥美も参加したオールブラジルの一戦だった。
一対三で敗れはしたが、十六試合中最小得点差の結果に、一塁手で五番を務めた渥美は満足だった。
パウリスタ新聞は〈快晴の空に熱球はおどる〉、日伯毎日新聞は〈球史を飾る善戦〉とコロニア野球の健闘ぶりを称えた。
自らの野球人生のハイライトから四十五年。現在、週末にグラウンドで白球を追う六十五歳の渥美は言う。「今、ブラジルの野球は日本に引けを取らない。日系はもちろん、非日系からも世界に羽ばたく選手が出て欲しい」
ブラジル野球に関わった男たちに共通する願いだ。
(敬称略)
(つづく、下薗昌記記者)
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