3月11日(火)
〈野球によって始まった在住日系人の親睦交流から、野球道具の保管場所の必要性が生まれ、それが引き金となって親睦団体結成へと発展した〉
昨年五十周年を迎えた、アチバイア文協が発行した「協会三十年の回顧」には、発足の過程で野球が果たした役割が記されている。
偶然にも、同じく五十周年を迎えたカッポンボニート市の文協も、野球クラブがその原点となっていた。
戦中、敵性外国人としてその結束力を奪われつつあった日系人が戦後、各地で求心力を高める手段の一つが野球でもあった。
早くから地域ぐるみで野球に取り組んできたアチバイア市が生んだブラジル野球界最大のスターがいる。
現在、広島東洋カープで、中継ぎとして活躍する玉木エンリッケ重雄だ。
▼ ▽ ▽
高校や社会人野球ほど、その存在が脚光を浴びることは少ないが、日本球界の最高峰であるプロ野球でも、早くから日系人がその足跡を残していた。一九八〇年に阪急ブレーブスに在籍した佐藤滋孝外野手が、ブラジル国籍の第一号だ。
ただ、わずか三年で日本を後にした佐藤と異なり、貴重な戦力としてマウンドを守る玉木が、実質的には開拓者の使命を担う。
「本当に義理堅い男なんだから」
昨年十二月中旬、短いオフを利用して母国に里帰りした玉木を囲んだブラジル球界関係者は、一様に教え子の気質をこう表現する。
幼少から玉木を知るアチバイア文協の辻修平やブラジル野球連盟会長の大塚ジョルジらに交じり、人一倍玉木の帰国を喜んだ男がいた。サンパウロ州野球連盟会長の沢里栄志オリビオだ。
▽ ▼ ▽
「お前こんなところで何してるんだ」
九〇年八月、野球関係の所用で訪日した沢里は、成田空港に降り立ったとたん、思わず声を上げていた。
目の前には、半年前に社会人野球の三菱自動車川崎に入部したばかりの玉木の姿があった。
「今までして下さった事へのお礼ですよ」と涼しげな笑顔で答える玉木は、練習中の神奈川県川崎市から、成田空港のある千葉県までわざわざ沢里を出迎えに来たのだ。
カスペル・リベロ高校卒業後、日本球界の門を叩いた玉木。
アチバイア文協野球部の少年チームで頭角を現した十代半ばの頃から、沢里は玉木に注目していた。
沢里は言う。「こいつならやれると思ってました」
▽ ▽ ▼
北パラナ州の小さな町で野球を始めた日系二世の沢里は、十六歳で豊和工業に入社。その後もコペルコチアなどで活躍したが、アナリストの仕事を始めた七五年から約十年間は、大好きだった野球とは無縁の生活だった。
そんな沢里を球界に引き戻したのは、当時のブラジル野球の古い体質だった。
〈これじゃダメだ〉
八六年、あるOB選手の大会に足を運んだ沢里は、愕然とした。
グラウンドには十年前と同じ軍艦マーチが鳴り響き、選手のユニフォームも全く同じだった。
旧態依然とした体質を変えないと、球界の発展はあり得ないと沢里は八八年以降、同連盟の活動に積極的に参加。九〇年には初の全伯的な組織であるブラジル野球連盟の立ち上げにも、定款作成などで貢献した。
特に沢里が、力を入れたのが「野球先進国」日本との関係強化だ。高校や大学、社会人の各界と太いパイプを築き、人材交流を図ってきた。
玉木の社会人野球入部についても、沢里が陰で大きな役割を果たしていた。
昨年十二月、サンパウロ州野球連盟の第七代会長に就任した沢里は「減りつつある野球人口の底辺を広げるのが僕の使命」とグラウンド焼けした顔を引き締める。
野球にかけた情熱は、選手だけのものでない。
(敬称略)
(つづく、下薗昌記記者)
■越境する日本文化 野球(1)=日本で花咲く「ヤキュウ」=日系人トリオが甲子園に
■越境する日本文化 野球(2)=ブラジルの起源は米国=日系人の娯楽として普及
■越境する日本文化 野球(3)=「新来」移民も参加=全伯チームで早稲田に善戦
■越境する日本文化 野球(4)=近代を持ち込んだ「野球移民」=完全試合投手も来伯