3月12日(水)
ブラジル野球の未来を担うダイヤモンドの原石たちが、日々磨かれている。
一九九九年十月、ヤクルト商工はイビウーナ市に野球場を建設。当時五百万レアルを要し国内最高峰の施設を揃えた同球場で、ブラジル野球連盟が二〇〇一年一月に始めた野球アカデミーが「セントロ・トレイナメント・ヤクルト」だ。
現在、ブラジル各地から選りすぐられた十三歳から十八歳までの若者約五十人が、全寮制で野球に取り組んでいる。校長を務めるのは、長年ブラジル代表の監督を務める佐藤允禧だ。
昨年、夏の甲子園に初出場した日章学園のブラジル人留学生三人もアカデミーを経験。日米のプロ野球や甲子園などを目指す若者の憧れの舞台となっている。
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「しっかりボールを見て打つんだ」「よーし、上手いぞ」――。
芝生に囲まれたグラウンド内にスペイン語訛りのポルトガル語が飛び交う。
平日の午前、同市内の私立学校で勉強中のアカデミー生に代わって、懸命にボールを追う集団がいる。
野球を通じた社会貢献を目指す同連盟が、昨年から始めた「プロジェクト」だ。イビウーナ市と近郊のヴァルジェン・グランデ市の両行政と提携し、学校に通えない子どもらを対象に野球教室を開いている。バスによる送迎に加え、練習後には、サンドイッチや果物などの軽食も提供する手厚いサポートも見逃せない。
大半が未経験のため、バットの持ち方や守備の仕方など基礎からの指導だが、キューバ人コーチらは、決して怒り声を上げることなく、まず野球の楽しさを伝えようと懸命だ。
十二歳のある少年は言う。「道路にたむろしているよりおもしろい。将来はプロになりたい」
ブラジル人特有のリズム感と身体能力の高さは、野球にも通ずるため、すでにコチアなど各チームで本格的な指導を受けている。 ▽ ▼ ▽
キューバ人六人と日系人一人のコーチを束ねるのが、佐藤の役割だ。
「本当によく勉強していた。彼の指導力がブラジル野球をここまでにした」と同代表の監督でも先輩格に当たる、高柳清は佐藤の功績を高く評価する。
五七年にボリビアに農業移民で入った佐藤は、六〇年に来伯。ピエダーデで投手として野球を始めた後、六六年には豊和工業に入社。投手として数多くの大会で優勝に貢献する。
「代表チームに入りたかったから」と六八年にはブラジルに帰化。十数年に渡って、セレソンの中心を担ってきた。
「佐藤、これからお前が代表の面倒見ろ」
現役引退後、モジ・ダス・クルーゼス市で少年野球の監督を務めていた佐藤は、八三年に高柳から代表監督のバトンを手渡される。 以来、数多くの国際大会でジュベニールや青年の部の指揮を取ってきた。
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「イッテキマース」
下校後、昼食を終えたアカデミー生らが、グラウンドに飛び出していく。彼らは平日にアカデミーで練習し、週末に各自のクラブに戻り試合をこなす。
真剣な表情で練習をこなす彼らは、それぞれが所属するクラブのユニフォームを着ているため、あたかもプロ野球のオールスター戦に出場する選手のようだ。
開校当時は三割にも満たなかった非日系だが、今年は約半数を占め、才能溢れる選手も現れている。
「プロになれるのはわずか。野球だけの人間になって欲しくない」と佐藤が言うように、同アカデミーは教育にも力を入れる。
日米の球界に進んでも困らないようにと、週に二回ずつ日本語と英語のレッスンも実施されている。
主将としてアカデミー生をまとめる日系四世のフランキは、今年末に日本の大学を受験する。一八〇センチ、八二キロの堂々たる体格の持ち主は「日本語を修得し、帰国後はブラジル野球のために貢献したい」と目を輝かす。
世代を超えて受け継がれる「野球」への思い。ブラジルの大地にその根は広がっていく。
(敬称略)
(この項終わり、下薗昌記記者)
■越境する日本文化 野球(1)=日本で花咲く「ヤキュウ」=日系人トリオが甲子園に
■越境する日本文化 野球(2)=ブラジルの起源は米国=日系人の娯楽として普及
■越境する日本文化 野球(3)=「新来」移民も参加=全伯チームで早稲田に善戦
■越境する日本文化 野球(4)=近代を持ち込んだ「野球移民」=完全試合投手も来伯