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ビンラディン氏 96年に来伯=イグアスーに数日=情報局が逮捕計画も

3月21日(金)

 【ヴェージャ誌一七九四号】世界で最も有名なテロリストで、指名手配されているオサマ・ビンラディン氏が一九九五年、ブラジルに来ていた―。ヴェージャ誌の情報では、同氏はアルゼンチンから不法入国し、フォス・ド・イグアスー市で三日間過ごし、イスラム教モスクでアラブ・コミュニティーのリーダーと会談した。ビンラディン氏は一九八〇年代後半に終結したソビエト連邦のアフガニスタン侵略戦争時の経験談を語ったという。

 当時ビンラディン氏は、世界的テロリストのレッテルを貼られていなかった。イスラム教徒のリーダーたちは同氏を来賓として快く迎えた。フォス・ド・イグアスー市のイスラム教徒たちと同氏の会合は二十八分のビデオテープに収録された。
 テープを見た人によると、当時のビンラディン氏は米国の同時多発テロ以降のような長いひげはなく、短い口ひげというすっきりした顔だった。服装は、白いアラブ衣装に赤い布で頭を巻いていた。
 国家情報局(Abin)の重要職務に就いている職員が先週、匿名条件でヴェージャ誌の記者にビンラディン氏のブラジル滞在について話してくれた。その後連邦警察の幹部と、フォス・ド・イグアスー市で働いていた元連警警官は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイとの国境付近である同市で、イスラム系テロリストの捜査が行われていたと語った。
 一九九四年、ブエノスアイレスでユダヤ・コミュニティーを巻き込むテロ攻撃があり、九十六人が死亡した。CIAはブラジル政府に、三国国境地域であるフォス・ド・イグアスー市周辺の捜査を依頼した。
 テロリスト捜査は、後にAbinに代わった戦略局が担当し、市警警部二人と連警諜報センターのエージェント四人で形成されたシークレット・エージェント六人を同地に送り込んだ。戦略局の作戦は数カ月に渡って続き、多くの不審な点が浮上したが、確実な証拠を得ることはできなかった。
 この作戦中、フォス・ド・イグアスー市で不法滞在していたエジプト人のAを発見。同国で百人以上の人々を犠牲にしたテロリスト集団に関係がある疑いのある男で、エジプトに強制帰国させられれば命を狙われる状況にあった。ブラジルに残る条件として、スパイとして働くことに。月給二千ドルで今でもスパイ活動をしている。
 学生時代、ビンラディン氏と一緒に勉強したことがあるAは、フォス・ド・イグアスー市のアラブ・コミュニティーに通じ、同市のモスクにも通っていた。ビンラディン氏が訪伯した時もモスクに居合わせた。同氏は、対ソビエト連邦戦争での活躍でイスラム教徒から称えられていた。Aは、尊き友人の映像をビデオテープに収めた。
 ビンラディン氏の滞在を不審に思う者は一人もいなかった。Aも同氏がテロリストであることを知らなかったし、戦略局自身もビンラディン氏の名前を聞いても「オーストリアの駅の名前か?」と聞き返すかのごとく、何とも思わなかったであろう。
 それから三年後―。一九九八年八月、ケニアとタンザニアの米国大使館で爆弾テロが発生し、二百人以上の犠牲者が出た。米国側はこの時初めて、テロ集団『アルカイーダ』の存在を知った。
 米国政府は捜査の末、アフリカでのテロ攻撃の首謀者を「オサマ・ビンラディン」だと発表し、賞金五百万ドルを同氏の首に掛けた。その後CIAがAbinに別のテロリストの情報を求めてきた。Aは、そのテロリストと共にビンラディン氏も来伯していたことをAbinに伝えた。
 AbinはAとビンラディン氏の関係を利用して、Aに同氏とコンタクトをとるよう依頼した。Aは「賞金は自分のものに」という条件でアフリカへ飛び立ち、ブラジルに戻ると「コンタクトは可能だ」との情報をAbinに伝えた。
 Abinは六カ月間に渡ってAをカイロに送り込んで、ビンラディン氏とコンタクトをとらせる作戦を練った。費用は月に一万ドル。だがAbin幹部は、当時それほど有名なテロリストではなかった同氏を捕まえるためにそれほどのことをする必要はないと、作戦実行に全面的に反対した。
 またブラジル政府は、ビンラディン氏逮捕に関わることによって、フォス・ド・イグアスー市がテロリストのモスクだと思われると心配していた。さらに「月に一万ドルは高すぎる」と完全に作戦を握りつぶした。
 こうしてブラジル政府はオサマ・ビンラディン氏を生け捕りにするチャンスを完全に失った―。この事実に対しヴェージャ誌が政府に問いただしたところ、「ブラジルの法律を違反しない人を逮捕することはできない」との返事を得た。それから三年後、ニューヨークの世界貿易センターのツインビルが崩れ、ビンラディン氏の首には二千七百万ドルが掛けられている。