3月27日(木)
「いやあ、のんびりできるかと思ったけど、最後の週まで忙しいね」とひっきりなしに掛かってくる電話に応対しながら、見せる笑顔。
こんなところにあったかー。と思わず唸ってしまうほど、現代の日本では見られなくなった『味のある顔』が、サンパウロ市サンジョアキン街三八一番の文協ビルの事務局から消える。ブラジル日本文化協会業務二課の主任、中野恵市さんである。
常に笑いを忘れない独特の語り口とその稀有な存在感で十七年間文協の職員を務め、図書、工芸、国際民族舞踊、美術、芸能、活花委員会を担当してきた。
本人は「ただの世話役」と謙遜するが、定款第二条にある「日伯両国の文化交流及び親睦、交流を促進する」という文協の存在目的でもある仕事を一手に引き受けてきたともいえる。
三月三十日付で定年退職となるが、日曜日の当日はコロニア芸能祭の予選大会が行われるため、「最後の最後まで、文協に奉公します」。
■
中野恵市。一九三三年、大阪生まれの七十歳。少年時代は長崎で育ったが、終戦までの数年間、満州にいた経験も。
「だから、海外に出ることには何の抵抗もなかった」。
高校卒業後に務めていたNGK(日本特殊陶業)でブラジル勤務を希望し、六一年永住目的でブラジルへ。
通算十三年同社で働いたが、勤め人の生活に見切りをつけ、「売上を計算するのが嫌になるほど、儲かった」というバールをサントスで四年間。
サンジョアキン街でのペンション経営、邦字新聞社記者、南伯農協と様々な仕事を経験し、八十六年八月、文協職員となり、現在に至る。
「結局、仕事的に一番合ってたのかも」と話す中野さんが十七年間で一番印象に残っていることは、やはり八十年祭だという。
安立仙一事務局長を中心に職員は三カ月以上の間、深夜三、四時まで激務に追われた。「パカエンブーでの記念式典が終わった時は車の中で気絶するように寝ていた」と当時を振り返る。
退職後は「ブラジルの歴史などの勉強や旅行をしてこの国をもっと知りたい」と定年後の生活に早くも目標を見いだしている。
四月に新しく誕生する執行部には「やはり、日本文化を伝えるには、日本語が必要不可欠」と日本語の継承に一層重きを置いて欲しい考えだ。
「一番嫌な事は以前していた会社や職場の悪口を言われること」。だから「新生文協には頑張ってほしい」とエールを送る中野さん。
二世、三世中心の文協を強調する現在活動中の改革委員会の動きに「そうかも知れんね。でも、それも時代の流れやから」。
二世への移行が進む日系社会の表舞台から日本語の火がまた一つ消えるー。
何故か淋しい感じがするのは一世だけが持つ感傷に過ぎないのだろうか。