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ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地=中=一年で半数以上が病死=「棺桶が間にあわない」

4月10日(木)

 【リマ発】セルバ(熱帯性低地)とシエラ(高地)、そしてコスタ(海岸)。この三つの対照的な自然環境がごく近距離に密接していることがペルーの国土の主な特徴といえる。 その十二パーセントが不毛の砂漠に覆われたコスタと呼ばれる砂漠地帯であり、生き物が住むことができるのはアンデス山脈から流れ出る川が太平洋に注ぐ流域のみである。そしてそのわずかな耕地可能な土地の面積は六五〇〇平米、ペルー全国土の一パーセントにしか過ぎない。
 灰色のくすんだ砂に覆われ、色彩も生命の存在さえ感じられない寂寥たる風景のコスタは長い航海を終えた日本移民たちの目にどう移ったのだろうか。
 新潟県人がその約半数を占めた七九〇人の第一期ペルー移民(全て男性であった)は、ペルーが何処にあるか知るものもなく、外国で数年働くだけの予定だったという。
 長い航海中、義兄弟の杯を交わし、錦衣帰郷の夢を語り合った若人が再会を誓い合った。しかし、その中の幾人が互いの苦労話を後に語り合えたろうかー。
 佐倉丸は七カ所に寄港し、移住者たちは十以上の耕地にそれぞれの一歩を踏み出した。
 カニエテ耕地には同年四月三日に二九六人が最初の一歩を記している。 
 日本移民にあてがわれた住居はサトウキビの葉に泥をこねて作られたもので、土間に敷かれた枯れ草の上で寝る生活。泥水を漉した水と粗末な食事で、気候も環境も違う土地での苛酷な労働で栄養失調者が続出した。 
 長年奴隷を使って耕地開拓を行ってきた領主たちは時にはむちを用いて、苛酷な労働を移民たちに強い、賃金もまともに支払われることなどほとんどなかったという。 
 「四年の契約なんてとんでもない。こんなところ一日もいられない」と多くの耕地で脱耕者が続出した。
 しかし、他の土地に逃げることができたものは幸せであった。疲労困憊した移住者に追い打ちを掛けるように蔓延したマラリアは容赦なく移民たちを襲った。 カニエテでは、入耕数カ月後に労働可能だった移住者わずか数十人、約半数の百四十三人が入植後一年を待たず、亡くなっている。
 移民たちの最高年齢者が四十五歳だったことを考えると耕地での生活環境がいかに壮絶だったかは凡人の想像を越える。
 続出する死者にお経を上げて弔うことも出来ず、「一人に一つの棺桶では間に合わない」と次の犠牲者を待ってから、共に埋葬するほどであった。 
その日本移住者たちの集団埋葬地であった土地には現在、日本人墓地があり、無縁仏を祀る慰霊碑『無縁塔』も建つ。
 墓地の隣にあるプレ・インカ時代のものといわれているワカ(遺跡)は、数百年の時を経て、アドベ(日干しレンガ)のボタ山のようになっており、地元の子供たちにとって格好の遊び場となっている。
土色の大地に白いペンキで塗られた墓石が光っている。その墓石に囲まれるように建つ無縁塔は移住者たちの血や涙を吸い取ったカニエテ耕地を見つめ続けている。
    (堀江剛史記者)

■ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地(上)=ある2世の不思議な体験=「地獄(カニエテ)で」死んだ仲間の供養を」

■ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地=中=一年で半数以上が病死=「棺桶が間にあわない」

■ペルー 南米初の日本人入植地=あぁカニエテ耕地(下)=誇りとルーツを見直す場=ペルー日系人の心の故郷