4月17日(木)
ふるさと巡りも今回で十七回目。サンパウロからブラジリア、パラカツ、ピラポーラ、カルモ・ド・パラナイーバ、そしてサンゴタルドまで、二台のバスは中部高原二〇〇〇キロを走り抜けた。サンゴタルドで日系人の訪問を終えた一行は、温泉の町アラシャーで旅の疲れをいやす。
宿泊したのはトロピカル・グランデ・ホテル・アラシャー。市の中心部から離れて建つこのホテルは、一九三九年の建築。当初はカジノの開設が目的だった。
ところが二年後にカジノが禁止。その後も営業していたが、九〇年代初めに改装のため閉鎖され、二〇〇一年に再オープンした。建築面積四万五千平方メートルのネオゴチック様式。水晶を使った窓、ポルトガルから取り寄せたモザイクを張った床など、当時の内装が優雅な時代の面影を今に伝える。
ラジウム鉱泉の、いわゆる泥風呂や、温泉、プール、ホテル内の散策と、一行はそれぞれに時間を過ごす。ここで二晩を過ごした後、一行はサンパウロへの帰途に着いた。
今回ふるさと巡りに参加したのは、六十八人。戦前にブラジルに渡ってきた人もいれば、ブラジル生まれの二世、戦後の移住者もいる。
最初のふるさと巡りは八八年。日本移民八十周年の記念事業としてノロエステ沿線を訪れた。
今回の参加者の一人、和田一男さん(七九)は、生地のプロミッソンを訪ねたこの時の旅行に参加した。「当時のことを知っている人達と話ができてよかった。やはり一人で行くのとは違うから」。以来、参加した回数は十五回。「一番思い出に残っているのは?」「やっぱり一回目ですね」。
最年長の河合五十一さんは九一歳。ミナス南部のイタジュバ市で農業を営む。夫人の静子さん(八〇)とイタジュバに入ったのは三三年、同地で最初の日本人だった。商売をしていた河合さんが農業を始めたのは七十歳の時。「セラード地帯の農業を見たかった」と、その好奇心は今も若い。
岩田國一さん(八三)は、夫妻でレシフェから参加した。岩田さんがこの旅行を知ったのは昨年十月、ふるさと巡りがペルナンブコ州を訪れた時だ。前回は迎える側、今回は逆に訪れる側。「年の差もなく、誰からも声をかける。いい団体ですね」。
行く先々で「ふるさと」を歌う。訪問先の人々と、ふるさと巡りの一行。歌いながら、それぞれが、自身のふるさとを頭に思い描いているのだろうか。ある訪問先では、感極まったのか、泣き出してしまう婦人部の女性の姿を目にした。
ミナスを巡った今回のふるさと巡り。苛酷な自然に生きるセラードの潅木のように、この地で出会った日系人たちもしっかりと大地に根を張って生きていた。「本当に、どこに行っても日本人がいるね」、参加者の一人がつぶやく。
若い農業者がいた。三十代、四十代の日本人会長、農協組合長の姿があった。かつての開拓前線でも、世代交代が進みつつある。「夢を追いかけているうちはいい。守るようになったら・・。子供や孫にも夢を追ってほしいですね」、サンゴタルドのコチア青年、田中さんはそんな風に語る。
不毛の大地と呼ばれたセラード。三十年の時を経て、かつての荒野は緑の大地に生まれ変わった。そして、そこには確かに、ブラジルに生きる日系人の足跡が刻まれていた。
(おわり・松田正生記者)
■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(1)=美質を次世代に残したい=首都の長老の願い
■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(2)=パラカツ、地盤築く=入植後26年 最盛期の半数60家族
■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(3)=ぶどうから新しい果樹へ=ピラポーラ 大河利用の農業
■セラードの日系人=ふるさと巡り、中部高原へ(4)=日本人が築いたコーヒー地帯=C・ド・パラナイーバ 霜害避け未知の地へ