4月24日(木)
リマのホルヘ・チャヴェス空港に近づいた飛行機の安全ベルトのランプが点滅するころ、人口八百万の都市は機内客の眼下にその姿を見せる。夜景の美しさと昼の荒涼たる風景はあまりに対照的だ。
色彩に欠けた街を見下ろすようにそびえる岩山、サンクリストバルの丘は標高四百五十メートル。電波塔があるため、日系移民からは電信山と呼ばれており、現在では、観光地にもなっている。
「サンクリストバル丘のツアー!たった五ソーレス(五レアル相当)だよ!」
セントロのアルマス広場の前はチケットの売り子たちの声で賑やかだ。
満員になるのを待って出発するツアーバスは、市内を流れるリマック川を越え、車一台がやっと通れるほどの貧民街の隘路をくぐり抜け、ガードレールのない蛇行する道を這い上がる。
リマ全市を見渡せるこの丘で五年間、観光ガイドをしているマリアという三十代の女性に出会った。
マリアはペルー第一期移民を乗せた『佐倉丸』が到着したリマ北部にあるカジャオ港の場所や「リマに高いビルがないのは有史以来二十数回の地震を経験しているから」などといったことも教えてくれた。
家族などについて話は弾み、多少打ち解けた頃、フジモリについてどう思うか聞いてみた。
「あれを見て。フジモリが作ってくれたのよ」と彼女は十字架の向かいにある管理事務所のような建物を指さした。
その建物は昔のリマの写真や資料などを展示している小さな博物館で、フジモリ政権時代の九七年に建てられたものだ。
「このサンクリストバルの丘にだって以前は歩いてしか登れなかったのよ。彼のおかげでペルーは良くなったわ」と彼女は続ける。
フジモリ以前のアラン・ガルシア政権時代。それはペルーの暗黒時代ともいえるものだった。年間七五〇〇パーセントを超えるスーパーインフレ。犠牲者二万五千人を数えた無差別テロは、今もリマ市民に暗い影を落としている。
フジモリはこれに対して、独裁的と批判されながらも抜本的な改革を次々と実行していった。『フジショック』と呼ばれた大幅な価格調整によるインフレの抑制、主に貧民街に建設された学校は約三千校に上った。
インフラの整備、公営事業の民営化、テロ組織の撲滅、自由開放経済の実施などの改革が、ペルーの経済や社会機能を大きく好転させたことは反フジモリ派でさえも認める事実である。
「フジモリの時代が懐かしいよ」とあるタクシー運転手はつぶやいた。
タクシーといっても無許可の白タクである。車さえあれば開業できるこの商売は街にあふれかえり、手を上げれば二、三台が止まるほどだ。
運転手は行き先がセントロだと知ると『TAXI』の表示プレートを取り外した。無許可のタクシーが警察に見つかれば、八十ソーレス、二回目からは百五十ソーレスの罰金が課せられるからだ。
三人の子供がいるという彼は「生活は楽ではない」と生活の苦しさや現政権のへの不満を口にした後、過去を振り返るように話した。
「フジモリはペルーがよくなっていく、という希望を俺たちに与えてくれた。今はこの国がどうなるのか誰にも分からないんだ」
フジモリ政権時代をいい意味で回顧する一般市民は相当に多いのではないかー、短い取材期間を通しての感想だ。
ある二世は説明する。「反フジモリ派市民の多くはマスコミの論調をなぞっているだけ。一部の市民はすでに洗脳状態にある」。
情報操作を行っているとされる現政権はフジモリの功績の事実さえ、消し去ろうとしているようだ。それはフジモリの政界復帰の可能性を限りなくゼロにするため、〇六年の次期選挙まで続くのだろう。いや、市民の記憶からフジモリが完全に消えるまでー。
そう考えれば現在、マスコミによって展開されている過剰ともいえるフジモリ批判にも合点がいく。
しかし、単純ともいえるその構図を重ね合わせることのできない社会がペルーにはある。五万とも八万ともいわれる日系社会である。 (堀江剛史記者)
■ペルーからの報告=フジモリ 待望論はあるか(1)=血と地の宿命の中で=懊悩する日系社会
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