6月4日(水)
流行歌で振り返る激動の昭和史、移民の方にも―。八〇年の旗揚げ以来、常に「日本人とは何なのか」をテーマにした作品に取り組んできた日本の劇団1980(いちきゅうはちまる)がいま、そんな思いから、懐かしのメロディーで昭和の歴史をつづる『素劇あゝ東京行進曲』のブラジル・パラグアイ公演の実現に向けて動いている。巡業は来年十一月から十二月を予定している。劇団の主宰は藤田傳(でん)さん。「棄民」や「土民」といった切り口から、「奇妙な国のドしがたい民」=日本人を喜劇のなかに表現してきた作家だ。ブラジルに渡った炭鉱離職者を描いた戯曲もあり、九三年には取材でブラジル各地を歩いた。『あゝ―』は日本初のレコード歌手、佐藤千夜子(1897―1968)の光と影に満ちた一生を通し、同時代に生きた日本人像にも迫った一作。初演は九三年。その年の読売演劇大賞を受賞している。
公演のコーディネイトのため一日、来伯した劇団員の柴田義之さん、澤田壱番さんは、「照明以外はすべて人力でやる劇。会場のいかんに関わらず、どこでも行うことが出来る。希望があればどこへでも駆けつけたい」と意気込む。
約一カ月間の滞在中はパラグアイのイグアス移住地からマナウスまで行脚。日本人会の代表らと会い、話を煮詰め帰国後、日本の文化庁や国際交流基金などに助成援助を申請する段取りだ。実現すれば、劇団にとって〇二年のルーマニア・モルドヴァ・ミラノ公演に次ぐ海外公演となる。
シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で 逃げましょか―。
作詞は西条八十、作曲は中山晋平が手掛けた。『東京行進曲』は二八年、歌手佐藤千夜子によって録音され、十五万売れる大ヒットを記録。映画主題歌の第一号でもあった。
ときは昭和一ケタ、世はまさに流行歌真っ盛りの時代。藤山一郎、東海林太郎・・・数多くのスターのなかでも、佐藤は歌謡曲の女王として君臨する。アメリカ、イタリアでの生活も当時の話題となった。
戦中は慰問団のひとりとして戦線を巡り、熱狂で迎えられるが―。終戦後、歌手生活から身に引いた佐藤をさまざまな醜聞と貧困が襲う。その暮らしは孤独そのもので、かつての栄光からはほど遠いものだった。
懐メロでつづる昭和史が謳(うた)い文句だ。二時間の劇中にアカペラで歌われる曲は五十三。十六人の俳優が入れ替わり立ち代わり、百七つもの役柄を演じる。「役者の平均年齢は二十代後半。昭和をほとんど知らない世代による『唱和史』です」と柴田さん。チャカチャンチャン、ズンチャカ、ズンチャカ・・・「効果音なんかも俳優自らが奏でるんですよ」。
舞台を見た作家の永六輔さんの感想が面白かった。 「『語る声』も『話す声』も『歌う声』も同次元にある(中略)弥生・縄文時代のミュージカルを観ているようで心が和む」。公演はこれまでに日本全国百都市で計三百回以上を数える。
「素劇」と呼ぶ独特の表現様式も特徴だ。能や狂言に見られる「見立て」をヒントにした、素朴な演出が効いている。例えば舞台装置は二十一個の黒い箱と数本の白いロープのみ。これを一瞬にしてさまざまな形に組み合わせる。ときには俳優の肉体そのものがセットになったりもする。澤田さんは、「極端に言えば、四畳半の空間があれば公演は可能」と胸を張る。
柴田さんは〇一年十二月から三カ月間、日本の文化庁が実施する芸術家在外研修制度でブラジルに滞在。日本移民の生きざまに衝撃を受けた。「まず藤田が、次にわたしが受けた感動を劇団の仲間にも味わってもらいたいと思った。来年はお世話になったこちらの方々にぜひわたしたちの代表作を観て戴きたい」と語る。
問い合わせはプロデュサーの楠野さん(電話011・9677・4841)まで。