6月19日(木)
昭和三十年代の神戸港に、「三大見送り風景」といわれる名物風景があった。移民船、捕鯨船団、関西汽船(別府航路)の出港見送り風景である。移民船は月二~三回、捕鯨船団は年約二回、関西汽船は、毎日夕刻、それぞれ盛大な見送りを受けて出港していった。
出港時、埠頭は見送り客であふれ、本船と岸壁の間は五色のテープが舞い飛び、港全体が沸き返るような賑わいだった。
見送りの盛大さこそ共通していたが、この三つの出港の意味は劇的に異なっていた。移民船は永久の別離を予感させる悲壮感あふれる出港、捕鯨船団は勇壮な捕鯨船員の出稼ぎ気分、関西汽船の別府航路は、新婚旅行客満載、船内一泊の人気航路で、明るい未来への旅立ちであった。
移民船出港時の岸壁は、日の丸の旗を打ち振る人、涙、涙、涙の移住者家族を見送る親戚、応援歌と万歳を絶叫し学友を見送る学生たちであふれかえった。「蛍の光」の音楽とともに岸壁を離れ、沖へ出て行く移民船を、港外に見えなくなるまで見送る人々の姿、出港後の岸壁には、切れたテープが海に浮かび、いつまでも放心したようにたたずむ老婦人の姿があった。盛大な見送りの後だけに、出港後の岸壁はまことにさびしく、見る人の心を打った。
歴史に残る「第一回ブラジル移民船・笠戸丸」は、明治四十一(一九〇八)年四月二十八日、神戸を出港、五十二日の航海のすえブラジル・サントスに入港した。 第二次世界大戦勃発により、移住事業は中断され、昭和十六年六月神戸を出港した「ぶえのすあいれす丸」が戦前最後の移民船となった。
戦後再開されたブラジル移民第一船「さんとす丸」は、昭和二十七年十二月二十八日神戸出港、五十四人の移住者のなかには、写真花嫁、日系人の養子となるために渡航する米兵と日本婦人の間に生まれた孤児もいた。
■移住坂 神戸と海外移住(1)=履きなれない靴で=収容所(当時)から埠頭へ
■移住坂 神戸と海外移住(2)=岸壁は涙、涙の家族=万歳絶叫、学友見送る学生達
■移住坂 神戸と海外移住(3)=はしけで笠戸丸に乗船=大きな岸壁なかったので
■移住坂 神戸と海外移住(4)=国立移民収容所の業務開始で=移民宿の経営深刻に
■移住坂 神戸と海外移住(5)=温く受け入れた神戸市民=「移民さん」身近な存在
■移住坂 神戸と海外移住(6)=収容所と対象的な建物=上流階級の「トア・ホテル」
■移住坂 神戸と海外移住(7)=移民宿から収容所へ=開所日、乗用車で乗りつけた
■移住坂 神戸と海外移住(8)=憎まれ役だった医官=食堂は火事場のような騒ぎ
■移住坂 神戸と海外移住(9)=予防注射は嫌われたが=熱心だったポ語の勉強
■移住坂 神戸と海外移住(10)=渡航費は大人200円28年=乗船前夜、慰安の映画会
■移住坂 神戸と海外移住(11)=収容所第1期生の旅立ち=2キロを700人の隊列
■移住坂 神戸と海外移住(12)=たびたび変った名称=収容所、歴史とともに