6月25日(水)
地元の総力を挙げての誘致運動が功を奏した国立神戸移民収容所が、昭和三(一九二八年)三月に開設されたことにより、日本全国から移住者が神戸に集まる仕掛けが出来上がった。
移民収容所は、神戸への集客装置であるとともに、神戸に寄港する移民船に安定的に乗客を提供するという意味でも、神戸の町と神戸港の発展に貢献した施設であった。初年度の総利用人員は、一万二千五百七十七人(一家族当り五・三人)、出身地は四十七都道府県と「朝鮮」にわたっており、県別では、熊本二千三百六十八人(一八・八%)、広島一千百九十七人(九・五%)、福岡一千百八十人(九・四%)、以下、北海道、山口、沖縄の順に続いている。九州、沖縄が全体の四割強、中国地方が二割を占めていた。
日本中から神戸に集まってきた移住者を、神戸市民は「移民さん」と「さんづけ」で呼び、温かく受け入れた。神戸市民にとって「移民さん」はごく身近な存在であった。
収容所のすぐ近くで生まれ、育ち、現在もそこに住んでいる佐藤國吉氏(元神戸海事広報協会会長)は、少年時代、収容所を建設するため、墓地を移転した空き地でテニスの練習をした思い出などをなつかしく語る。「鯉川筋の山手には、移民者むけの土産物屋が軒を連ね、私はそれを見ながら真っ直ぐ下って海岸まで歩き、移民船にテープを投げて見送った覚えがある」「この頃移民された一世の方々のご苦労はさぞや大変な事であったと思われる」と回顧録「波涛を越えて」で温かく書いている。
佐藤氏は「神戸港移民船乗船記念碑実行委員会」の設立発起人として尽力、委員会発足後は顧問に就任した。同氏は、移民船乗船記念碑募金者第一号として、記念碑建立に大きく貢献した。
佐藤氏とともに募金第一号を寄付したブラジル在住の後藤留吉氏は、兵庫県姫路市出身、神戸の鉄道省鷹取工場で働きながら勉強し、昭和四(一九二九)年、二十歳のときにブラジルに移住し、奮闘努力が実って実業家として成功をおさめ、現在はカンピーナス市に在住、悠悠自適の生活を送っている。
戦後、収容所近くに住んでいた和田宣一氏は、付近の住民の中には年末に移住者を自宅での餅つきに招いた人もいた、と記憶している。住民にとっては、餅つきの人手確保の意味もあったのであろうが、見知らぬ土地・神戸の収容所で連日、講話と予防接種に明け暮れる移住者にとって、餅つきは大いに慰めとなり、元気づけられたことだろう。招く人、招かれる人、当時の市民と「移民さん」の心温まる交流だった。
垂水区在住の写真家・平岡徳太郎氏は、戦前、移住者の列が、大きな荷物を担いで、収容所から城が口筋、穴門筋、鯉川筋を下り、黙々と徒歩で埠頭の移民船へ向かう姿と、同じ坂道をはしゃぎながら登って通学する神戸女学院の女学生のはかま姿を、今も鮮明に覚えている。
当時の神戸女学院は、今の神港高校あたりにあった。平岡氏は、戦後神戸港で働きながら、移民船、神戸港の写真を撮影した。氏が撮影した神戸港の移民船出港風景は、神戸の移住史の貴重な資料となっている。
■移住坂 神戸と海外移住(1)=履きなれない靴で=収容所(当時)から埠頭へ
■移住坂 神戸と海外移住(2)=岸壁は涙、涙の家族=万歳絶叫、学友見送る学生達
■移住坂 神戸と海外移住(3)=はしけで笠戸丸に乗船=大きな岸壁なかったので
■移住坂 神戸と海外移住(4)=国立移民収容所の業務開始で=移民宿の経営深刻に
■移住坂 神戸と海外移住(5)=温く受け入れた神戸市民=「移民さん」身近な存在
■移住坂 神戸と海外移住(6)=収容所と対象的な建物=上流階級の「トア・ホテル」
■移住坂 神戸と海外移住(7)=移民宿から収容所へ=開所日、乗用車で乗りつけた
■移住坂 神戸と海外移住(8)=憎まれ役だった医官=食堂は火事場のような騒ぎ
■移住坂 神戸と海外移住(9)=予防注射は嫌われたが=熱心だったポ語の勉強
■移住坂 神戸と海外移住(10)=渡航費は大人200円28年=乗船前夜、慰安の映画会
■移住坂 神戸と海外移住(11)=収容所第1期生の旅立ち=2キロを700人の隊列
■移住坂 神戸と海外移住(12)=たびたび変った名称=収容所、歴史とともに