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旧首都リオの移民95周年=〃音楽の都〃は格調高く

6月25日(水)

 十八日の「移民の日」。旧首都リオデジャネイロでも日本移民九十五周年が祝われた。リオ州各地に日系人は約一万五千人。現地日系社会の推移を振り返りながら、先没者追悼ミサ、記念式典の模様を報告する。
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「これは中国人の集まりか」
 ビールを振舞うギャルソンが何気なく聞いてきた。リオ市議会。式典後、同サロンで開かれたカクテル・パーティーの席だ。
 鈴木南樹はその著『埋もれ行く拓人の足跡』(パウリスタ新聞社)に書く。
 「リオ市に於いて我々日本人の顔を見ると直ぐ『シネース』と呼びかけるのは、支那人が日本人よりも早く渡伯してブラジル人間にポプラールになっていたことが直接的原因である」
 中国移民の嚆矢は一八九五年、主に広東方面を出身とする四百七十五人が渡伯。リオの気候が広東のそれとよく似ていたため、サンパウロよりもリオに定着した。
 現地在住日本人の間ではいまも「造船業の石川島播磨が進出する六〇年代までは街で『中国人』とよく間違えられた」が語り草だ。     □
 戦前最後のブラジル大使石射猪太郎の日記によれば一九四二年当時、州全体でも邦人は二百五十人あまり。それが石川島の最盛期七〇年代には、同社関係者だけで二百家族を超えた。
 日本人会が設立されたのもこのころ。リオ州日伯文化体育連盟の鹿田明義理事長は「移住者の長老と駐在企業の役員が集まってまずリオ日系協会が発足した」と説明する。
 観光名所のひとつサンセバスチャン大聖堂で行われた先亡者追悼ミサで、牧田弘行連盟副理事は移住の歩みを振り返った。
 「三〇年代、サンタクルス(リオ市から約六十キロ)にサンパウロ州から再移住した人たちが集団を形成したのが始まり」。その後はパプカイア、ノーヴァ・フリブルゴといった土地に入植。戦後は日本政府の主導でできたフンシャル植民地が知られる。
 アロルド牧師は「移住者の国ブラジル。日本人移民がやってきたことでよりいっそうこの国はブラジルらしさを獲得した」と、各移住地から集まった約百人を前に話した。
 「参列者の半分は二世」(リオ日系協会の新田フミオ会長)だった。
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 教会から式典会場の市議会まではそろって徒歩で出向いた。時間にして五分ほどの距離だ。ペトロブラスやBMDBが入る高層ビルが眼前に迫る。午後六時、喧騒の旧市街を背広姿の一団は石畳を踏みしめ、シネランジアのフロリアーノ広場に着く。市立劇場、国立美術館の壮麗な建物が並ぶそこに市議会はある。
 五年前の九十年祭式典は州議会で挙行されている。アングラ・ドス・レイス市長から州議になった日系二世ナガエ・ネオロビスさんの尽力した結果だ。今回は大学経営者で日伯文化協会会長モアシィ・バロスさんの働きかけで実現した。
 教会のような内装が施された市議会場。列席者は現職市議の名前が刻まれた席に座る栄誉を得た。農工業や教育文化の分野に貢献のあった移住者ら十一人を市政府が特別表彰。ツニブラ旅行社顧問の出羽孝史さんが代表して、「第二の祖国に慣れ親しんで生きて来た喜びは大きい」と謝辞を述べた。
 「音楽の都」の名にふさわしい式典だった。警察楽隊演奏の「アクアレラ・ド・ブラジル」で幕開け、最後はリオのテーマソング「シダーデ・マラビリョーザ」で締めくくった。日本側も「さくらさくら」、「ふるさと」で返答。伴奏・歌は音楽留学に来ている日本人学生たちだ。
 リオにはブラジル音楽を学ぼうと、日本人が相次いで来訪している。作曲家のヴィラ・ロボスやフランシスコ・ミヨーニを輩出、サンバ、ボサノヴァを生んだ都が彼らを魅了する。
 日本にも支部のあるヴィラ・ロボス協会名誉会員でミヨーニの未亡人と親しい牧田連盟副理事長は「リオはやっぱり『首都』ですよ」と胸を張る。
 五七年に設立された日伯文化協会。その黎明期には建築家オスカー・ニューマイヤーら、ブラジルを代表する文化人が参加した。「うちは常にブラジル人によるブラジル人のための日本文化団体」とモアシィ会長。「いまの名誉会員にはサッカーのジッコや山崎チズカ監督がいます」
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 連盟では鹿田理事長が中心となって、リオ日系史の編纂に着手し始めた。「これまでのブラジル日本移民史はサンパウロやパラナが中心だった」からだ。
 いつもブラジルの「首都」であり続けるリオ。現地在住の日本人にはそこに生きてきたという誇りがある。