7月4日(金)
「神戸移民収容所」(内務省所管)は、昭和三(一九二八)年三月の開業以来、七十余年にわたり、神戸の高台から町と港を見つめてきた。開業時、三千三百平方メートルの敷地に五階建の本館(延床三千五百六十四平方メートル)が建つのみであったが、移住者の激増で手狭になり、二年後の昭和五年三月には早くも増築を余儀なくされている。現在は、当時のままの姿の本館と、のちに増築された分館二棟、計三棟(延床五千九十四平方メートル)が四千平方メートルの敷地に建っている。
神戸の移民研究家・黒田公男氏によれば、昭和六(一九三一)年、収容所は新設された拓務省へ移管され、「捕虜収容所を連想させる」として、昭和七年に「神戸移住教養所」と改称された。
第二次大戦勃発により、移住事業は中断されることとなり、昭和十六(一九四一)年六月二十二日神戸出港のぶゑのすあいれす丸が戦前最後の移民船となった。大戦中、この建物は「大東亜要員練成所」として、東南アジアの日本軍占領地へ派遣する軍属の短期養成所となり、戦後は、戦災で家を失った県職員の仮宿舎、旧満州からの引揚者の仮宿舎、さらには神港病院などにも使用された。
昭和二十七(一九五二)年、移住事業再開に伴い、外務省所管「神戸移住あっせん所」として生まれ変わり、その年の十二月二十八日神戸出港の戦後第一船・さんとす丸で再び移住者を海外へ送り出した。昭和三十九(一九六四)年には「神戸移住センター」と改称され、昭和四十二年七月の豪雨災害の際には付近住民の避難場所に使用されることもあった。昭和四十六(一九七一)年五月三十一日、移住者の減少により、移住センターはその使命を終えた。
移住センター周辺には、かつて移住者相手の商店が軒を連ね、衣料品、鍋、釜、ドラムカン、石油ランプなどを売っていた。センター閉鎖後も、「移住者の店」、「渡航洋品店」などの看板をつけた建物が長い間残っていたが、阪神大震災でそれもすべて消滅してしまった。
昭和四十七(一九七二)年四月、神戸市が土地、建物を買取り「市立高等看護学院」、「神戸市医師会准看護婦学校」、「看護婦宿舎諏訪山寮」などに使用したが、これも平成二(一九九〇)年には閉鎖された。平成七(一九九五)年七月には、この建物は阪神大震災で損壊した神戸海洋気象台の仮庁舎となったが、平成十一年九月移転に伴い閉鎖された。わが国移住史に残る貴重なこの建物、移住の歴史を語るのみならず、神戸を襲った戦災、水害、震災等の災害の歴史も刻んでいる建物でもある。
広島県のハワイ移住者八百名が日本郵船・和歌の浦丸で神戸出航ハワイへ、熊本県のハワイ移住者三十四名が安治川丸で神戸に着き、新潟丸に乗り換えハワイへなど、明治以来、神戸はハワイ移住でも海外移住基地としても重要な役割を果たしてきたのである。
■移住坂 神戸と海外移住(1)=履きなれない靴で=収容所(当時)から埠頭へ
■移住坂 神戸と海外移住(2)=岸壁は涙、涙の家族=万歳絶叫、学友見送る学生達
■移住坂 神戸と海外移住(3)=はしけで笠戸丸に乗船=大きな岸壁なかったので
■移住坂 神戸と海外移住(4)=国立移民収容所の業務開始で=移民宿の経営深刻に
■移住坂 神戸と海外移住(5)=温く受け入れた神戸市民=「移民さん」身近な存在
■移住坂 神戸と海外移住(6)=収容所と対象的な建物=上流階級の「トア・ホテル」
■移住坂 神戸と海外移住(7)=移民宿から収容所へ=開所日、乗用車で乗りつけた
■移住坂 神戸と海外移住(8)=憎まれ役だった医官=食堂は火事場のような騒ぎ
■移住坂 神戸と海外移住(9)=予防注射は嫌われたが=熱心だったポ語の勉強
■移住坂 神戸と海外移住(10)=渡航費は大人200円28年=乗船前夜、慰安の映画会
■移住坂 神戸と海外移住(11)=収容所第1期生の旅立ち=2キロを700人の隊列
■移住坂 神戸と海外移住(12)=たびたび変った名称=収容所、歴史とともに