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沖縄県人二世第1号は誰?―笠戸丸移民の夫婦の子―おそらく金城ウトさん

7月11日(金)

 ブラジルの沖縄県人二世の第一号は誰なのか、日本移民九十五周年を迎え、ブラジルで話題になった、と沖縄タイムス紙(六月二十八日付)が伝えた。第一回笠戸丸には三百二十五人の沖縄県人が乗っていた。当然のように、この人たちのなかから、最初に生まれた人が第一号だろう、という推察がある。
 日本移民初期のことを知っている人たちは、笠戸丸移民の宮平牛助さん(二一、当時)の妻カメさん(二一、当時)が、ブラジルに渡ってきたころ、身ごもっていて、配耕先のイトゥー・フロレスタで生まれた長女のウトさん(現在、九十五歳)が、第一号に違いない、と口をそろえる。
 ブラジル到着後、移民たちが初めて働いたコーヒー園の園主も「ウトは、一九〇八年十一月に私の耕地で生まれた」と証言している。当時の園主アントニオさんは、妻の名と同じパルチーダと命名したという。パルチーダは、歴史上有名なブラジル先住民のリーダーの妻の名。ウトさんの名は、パルチーダ・ウト・ミヤヒラとなる。
 父親の牛助さんは、妻カメさんの甥・比嘉善太郎さん、いとこの山城武太さん、保次郎さん、宮城利三郎さんと一緒だった。笠戸丸移民のほとんどがそうであったように、期待していたよりも収入が少ないので、耕地から夜逃げし、〃金の成る木〃を求めて転々とし、ついにジュキア線セードロ駅に定住。
 バナナ栽培のかたわら、小さな食料品店を経営していたが、八十四歳で亡くなった。妻カメさんは百四歳まで生きている。
 ウトさんは、十九歳のころ、サンパウロ市の中央市場近くでバナナの卸販売をしていた金城幸盛さん(名護市出身、故人)と結婚、三男三女に恵まれた。二男のウンベルトさんはサンパウロ大学を出て、著名紙『ジョルナル・ダ・タルデ』の記者から編集長になり、三男のセルソさんも同大学を出て、現在同紙の編集長をしている。
 夫の幸盛さんは、終戦直後、上原直勝、宮城松成、宮里正雄、長浜文政、大城義栄さんらとともに、いち早く沖縄救援会を組織、北米のララ経由で膨大な救援物資を沖縄に送り続けた一人。戦後の沖縄救援秘史を語る場合、忘れてはならない人だ。沖縄文化救済協会、在伯沖縄協会の理事をつとめるなど、県人発展にも尽くした。
 ウトさんは、サンパウロ市内パライゾ区のアパートに長女家族と同居している。