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「松原移民」が乗っていた=50年前の船、同航者会

7月11日(金)

 戦後の計画移民が五二年の暮れに再開されてまもなく、チャチャレンガ号(オランダ船)でブラジルに渡った移住者の同船者会が、八月九日に開かれる。この移民船は同年六月十六日に神戸港を出港。アフリカ回りで八月八日にサントス港に接岸した。今年が渡伯五十周年の節目の年に当たることから、企画が持ち上がった。
 発起人は山下忠男さん(六九、援協事務局長)。山下さんは当時十九歳。リベイリン・プレット市在住の親戚を頼り、自由渡航者として、船に乗り込んだ。 移民船には自由渡航者のほか、和歌山県出身者を主体にした「松原移民」が多く乗船していた。
 渡伯後は散り散りになり、付き合いはほとんどなくなった。それでも、二十五周年記念の同船者会には、十数人が顔を見せた。
 同船者会はこの一回きり。今はもう、連絡先も分からない。
 神戸港を離れた時は、サンフランシスコで対日講和条約が締結されて、丸二年経っていなかった。
 アジアでの対日感情が懸念されており、香港やシンガポールでは上陸が許されなかったという。
 朝鮮戦争に出兵した南アフリカ人の兵士がノイローゼになってインド洋に飛び込み、救助したということも。
 乗船者が少なかったためか、三等船客からも二等船客に容易に上っていくことが出来た。
 「バーがあって、ビールが安く飲めた」。山下さんは、友人とちょくちょく通っては、グラスを傾けた。
 「三百ドルの所持金がサントスに着いた時には一ドルしか残っていなかった」。 所持金を浪費したのは、「自由渡航者の気楽さ」からだった。渡伯後は、「ずいぶん、苦労した」と、照れ笑いを見せる。
 同船者会の期日は、サントスに着港した八月八日と定めたかった。この日が平日なので、翌九日にずらした。会場は未定。
 問い合わせ電話番号=0XX・11・3208・1866・5(内線)。