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〝評価ゼロ〟の土地で=生き抜いてきた長州人=―南マ州バルゼア・アレグレ移民(3)=初期、3年レ連続の旱魃=重かった円建て債務

7月12日(土)

 バルゼア・アレグレ移住地は約三万六千三百六十三ヘクタール。旧海外移住振興会社(JAMIC)が五八年に、邦人自営農受入地として購入、造成した。
 小沢太郎山口県知事(当時)が造成中に視察して県民の移住先に適していると判断。移住者には長期貸し付け金を融資した。
 特典があったためか、山口県出身者は七八年十月の時点で二十九世帯と最多。入植者四十五世帯のうち、六四%を占めた。
 移住地に〃山口村〃との俗称がついた所以だ。
 三年連続の旱魃では収穫は上がらなかった。さらに、通貨クルゼイロが下落。円建て債務は、移住者に重くのしかかった。  県は、山口県人会を通じて、融資の返済を求めた。県人会は預金口座を開設。「一切手をつけない」との約束で、集金のつど返済金を積み立てた。
 それも県側の意向で八〇年代末に清算されることになる。
     ◇
 バルゼアの長州人は、母県とは何となくすれ違いになってきたようだ。それを如実に示すエピードがある。一九七〇年八月のことだ。
 元衆議院議員で日本海外移住家族会連合会会長も務めた田中龍夫氏が移住地を訪れた。
 同氏は山口県出身の政治家であり、幾度となく来伯しているブラキチだ。
 この年、バルゼアを視察、山口県出身者の家庭を戸別訪問するといって聞かなかったという。
 カンポ・グランデ市からテレーノス市までの道はまだ、舗装されていなかった。降雨で土がぬかるんだら、州都まで半日はかかった。
 交通が不便だったため、移住者の自宅に一泊する話まで出ていた。
 「移住者は盛り上がっていましたよ」と、藤田繁・旧国際協力事業団サンパウロ支所バルゼア・アレグレ事業所長(当時)は述懐する。
 バルゼア・アレグレ産業組合は小型機をチャーターして、カンポ・グランデ空港から、移住地に田中氏を迎え入れる準備を進めていた。
 その計画が、台なしになってしまう。京野四郎・元サンパウロ州議員(山口県人会初代会長、故人)が州政府と交渉、小型ジェット機を借りる約束を交わした。
 一泊二日の日程が日帰りへと変更されたのだった。京野氏は好意で行ったことだろうが、現地の人はそう解釈は出来なかった。
 「本当にがっかりした…」。藤田所長は声を落とす。
 田中氏の来訪について問うと、粟野村の人たちからは、はっきりした返事は返って来ない。記憶があいまいになっているというよりは、口に出したくないようにも見える。
     ◇
 訪問当日午前──。
 藤田所長ら関係者は到着ロビーで今か今かと、田中氏が出てくるのを待っていた。
 だが、いくら時間が経っても現れる気配さえ見ない。しびれを切らした関係者はひとまず、昼食に出掛けた。
 実は、小型ジェット機が故障。サンパウロからの出発が大幅に遅れ、田中氏らは結局、アエロ・タクシーの乗り込んだ。現地には、一切連絡が入らなかった。
 田中氏は、昼食中に到着。一足早く、移住地に向かった。この知らせを受けた藤田所長は直ちに、車を走らせた。
 留守番をしていた組合員が、来客の応対に当たっていた。さっそく、移住者に集合をかけた。だが、懇談の時間は一時間も無く、田中氏はとんぼ返りでサンパウロ市に戻っていった。