7月15日(火)
「俺が住所をバルゼアと決めて、こえた茨の拓くみち、そうよあなたのでっかい夢が、花を咲かせて実らせた…」。
バルゼア・アレグレ産業組合は百万レアル以上を投じて、昨年より移住地内に洗卵選別工場を建設してきた。竣工式が六月二十六日、同工場で開かれ、約四百人が祝福に駆けつけた。
バルゼア音頭(ブラジル農業移民者の歌)がアトラクションのフィナーレを飾った。
盆踊りなら普通、後ろへ一歩下がる振りも入る。このバルゼア音頭は、前進するだけ。〃未来志向型〃の踊りだ。振り付けは藤間勘周氏(山口県光市在住)が手掛けた。
開拓当初の苦難を乗り越え、今の生活を築いたという移住史がテーマ。素朴な歌詞が多くの人の共感を呼んだ。
江崎加代バルゼア・アレグレ日本人会婦人部長は、「はじめは参加を嫌がっていた人も踊り始めた」と、満面に笑みを見せた。
西村武人ブラジル山口県文化協会長は、「聞いていたら、貰い泣きしてしまいましたよ」と、目頭を熱くしていた。
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作詞者は金崎九朗さん(故人)。沖島義智さん(=元組合理事長)は、「リーダーのような存在」。秋枝つね子さん(七七)は、「いつも周りに人が集まってくるような人」と、金崎さんの人柄を語る。
組合では、理事長や監事を歴任、移住者を引っ張っていった。胃ガンで八七年に、病死した。
文章を書くのが好きで、生前には随筆や小説などをよく新聞や雑誌に投稿していた。
移住地の二十周年に際して、バルゼア音頭を作詩。記念誌、『バルゼア・アレグレ移住地 20年の歩み』に収めた。
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「苦労されてる中に、明るさが見える。前向きなメロディーをつけよう」ー。
アマチュア・バンド、ミュージック・キャラバンのリーダー、兼清健吾さん(山口県光市在住、六六)は九郎さんの詩を読んで、そう感じた。
父の書いた詩を歌にして残したいと、英司さん(=産業組合理事長、六五)は九〇年代末に、旧友の兼清さんに作曲を頼んだ。
二人は粟野中学の同級生で野球部に所属。兼清さんがピッチャー、英司さんがキャッチャーでバッテリーを組んだ。
中学卒業後は、別々の進路を選び、付き合いはしだいに遠のいた。「(金崎さんが)ブラジルに移住したのは後で分かった」(兼清さん)。
同窓会が十年ほど前に、開かれ、二人は再会。兼清さんが音楽活動を行っていることを金崎さんは友人より聞かされ、オリジナル曲が録音されたテープを渡された。
ミュジーク・キャラバンは光市に本拠を持つローカル・バンド。今年、結成三十年を迎えるベテランだ。老人ホームを慰問するなどして、地元で人気が高い。
バルゼア音頭は、曲調が明るいところから好評を得、盆踊り大会の曲に使いたいといった依頼が舞い込んでいるという。 ◇
九朗さんは、記念誌中の『入植二十周年の歩み』で「開拓初期の一度は通らねばならないいばらの道をふみ越え、今日迄きたのは、その底に流れている郷土愛であろうか」と記述。この章を「郷土作りに熱意を燃やすことこそ遠くブラジルに来た甲斐ではあるまいか」と結んだ。
〃評価ゼロの土地〃で生きてきた、長州人の意志の固さがうかがえる言葉だ。 果たして今春、粟野八幡宮の御神体は、秋枝さん宅から英司さん宅に戻ることになるのだろうか。おわり。 (古杉征己記者)
連載一回の文中、松枝つね子さんは、秋枝つね子さんの誤り。訂正してお詫び致します。
■〝評価ゼロ〝の土地で=生き抜いて来た長州人―南マ州バルゼア・アレグレ移住地―(1)渡伯前、粟野八幡宮から=分けてもらった御神体
■〝評価ゼロ〝の土地で=生き抜いて来た長州人―南マ州バルゼア・アレグレ移住地―(2)=水害絶えなかった粟野村=いま過疎、昔の資料なく
■〝評価ゼロ〟の土地で=生き抜いてきた長州人―南マ州バルゼア・アレグレ移住地(3)=初期、3年レ連続の旱魃=重かった円建て債務
■〝評価ゼロ〟の土地で=生き抜いてきた長州人=―南マ州バルゼア・アレグレ移住地(終)=素朴な歌詞「バルゼア音頭」―踊りの振りは前進のみ