7月15日(火)
万歳三唱事件―。といえば、思い出される方も多いのではなかろうか。日伯友好病院建設資金援助の見返りとして、八十周年祭式典で日本船舶協会(以下、振興会)の故笹川良一会長に万歳三唱の発声をさせることを尾身倍一文協会長(記念祭典委員会の委員長でもあった)が八七年に訪日の際、振興会側と約束したというもの。この事件がコロニアを賑わせた八八年一月には、尾身会長を始め副会長三人の引責事件にまで発展している。しかし、尾身会長、前年の八七年の十月には、すでに辞表を提出していた!? 当時のコロニアの水面下で起こっていた門外不出のエピソードを十五年後の今、安立仙一前事務局長の証言をもとに再検証する。(役職名は当時のもの)
八七年七月、東京。尾身委員長は後にコロニアを揺るがすことになる、ある決意を胸に安立事務局長と日本船舶振興会へと歩を進めていた。
「委員会の承認なしに話を受けては、問題が起きるのでは・・・」という安立さんの助言にも尾身委員長は耳を貸さず、力強く返答した、という。
「自分は文協会長、記念祭委員長の権限と責任を持ってことにあたるつもりです」
【辞任騒動】
日本移民八十周年祭委員会の尾身委員長、竹中正(援協会長)、高野芳久(県連会長)、別役道昌(商工会議所会頭)の三副会長が辞任へー。
日系コロニア四団体の代表者全員が辞意を表明するまでに発展した「万歳三唱事件」は、祭典八十周年を半年後に控えたコロニアを仰天させた。
事の起こりは、尾身委員長が七七年に訪日した際、振興会の笹川会長に日本移民八十周年祭で万歳三唱の発声をさせることを独断で決定。その代償として、当時建設中だった日伯友好病院の建設費用一億円を援護協会に寄付する約束を取りつけた、というもの。
この事件が邦字紙の紙面を飾ったのは、翌年一月。パウリスタ新聞は「万歳三唱一億円也」と大見出しを掲げ、「パカエンブーの祭典、コロニアを売る行為」と断罪している。
八八年二月二日に開かれた同祭典常任委員会で、四人は辞表を提出することを記者会見で発表。当日、小野純男サンパウロ総領事が調停役となり、事態の収拾に乗り出すなど異例の事態となった。
【曖昧模糊】
しかし、同日午後四時に開かれた同委員会で尾身委員長は「自分の勇み足で迷惑をかけた。全てを白紙に戻したい」と辞意を撤回、委員に陳謝。三副委員長もそれに追随する形で辞意を撤回している。
ー水本(毅)議長(常任委員会委員長)が促した再度の拍手の要請にまばらな拍手が起こった。必ずしも委員全員が納得したとは言いがたいがー(中略)(八十周年委員会の空中分解は回避されることとなったー。(パウリスタ新聞二月三日付)
四日には「八十周年委員会の怪」として、『消えた尾身辞表』は『コロニアに対して一層の不信感と深いシコリを残したようだ』と報じている。
ある委員は「(四人が)あれだけ責任を感じ、辞表提出を公言したのに、その気配もなく、事情説明を求めてもあやまるばかり。拍子抜けしてしまったと同時に後味が悪い」と取材記者に語っている。
出席した委員に、事件の白紙化を拍手で求めた水本議長も「裏工作などなかった。ある程度の不満は我慢して乗り切らねば」と話すなど、何か釈然としないのは当時の紙面からも伝わってくる。
「うやむやのうちに終わった、という感想を拭い切れなかった」と当時の新聞関係者は当時を振り返る。
この辞任騒動はあくまでも〝ジェスチャー〟に近いものであり、前年十月にはすでに辞表は提出されていたのである。
(堀江剛史記者)