8月15日(金)
今日は終戦記念日―。しかしブラジル日系社会ではこの時から違う形での戦争が始まったともいえる。日系コロニアで起きた勝ち負け抗争は、様々なかたちで議論、研究されてきた。しかし、犠牲者の家族は声を張り上げることなく、それぞれの人生を歩んできた。今まであまり語られることのなかった家族から見た勝ち負け問題ー。戦後五十八年目を迎えた今、テロの凶弾に倒れた溝部幾太の長女、吉雄ミユキさん(八八)と次女、樋口愛子さん(八二)に当時の状況と現在の思いを語ってもらった。
「変な夢だったねえ。遊んでいた従兄弟の背中に蛇が噛み付いて、ぶら下がっていたんですよ。私は蛇の尾っぽを手にからめて取ったんだけど、その蛇が咬んでいたところから血が流れてねえ・・・」。
愛子は跳び起きた。「血の夢を見ると肉親に何か悪いことが起こる」という迷信を思い出した。
「父に何かあったのでは・・・」。真っ先にそう感じた。嫌な予感が意識を包みこみ、一晩まんじりともせずに明かした。
その予感は現実のものとなった。愛子の父親の名は溝部幾太。臣道連盟の凶弾に倒れた最初の被害者だったー。
■
「何故あんなことになったのか。日本が負けたと誰が喜んだというの。父は戦争が終わってからも、東方遥拝を欠かしたことはなかったというのにー」。
愛子さんは、半世紀を過ぎた今でも当時の怒りを忘れてはいない。現在八十二歳。夫の樋口哲夫さんと子供二人の四人でサンパウロ市サンターナ区に住む。
一九四六年、結婚して間もなかった愛子はポンペイアで農業を営み、一歳になる勝郎(日本が戦争に勝つようにと名付けられた)も誕生していた。
しかし、愛子の気持ちはすぐに祖父母、両親、兄弟たちのバストスへ飛んだ。特に父親の幾太のことが心配でならなかった。
その当時、バストス産業組合の専務理事をしていた溝部に対し、不穏な空気が流れているのを母のコトを通じて聞いていたからである。
脅迫状が溝部家へ舞い込み始め、町角には『国賊、売国奴』などと書かれた張り紙が街のあちこちで見られた。四六年の正月に届いた年賀状のなかには、包丁を突き立てられた人間の絵が描かれたものも届いた。
ある時は真宗門徒である溝部家に上がり込み、仏壇の前で「白骨の御文章(初七日の際などに、読まれる経文)」を読み上げる輩もいたという。
溝部は玉音放送直後、組合幹部会を開いて、軽挙妄動することなく、それぞれの仕事に励むようーと訓示を与えている。指導者としてごく当たり前の対応だったが、勝ち組からはけしからんとの声も上がっていた。
「もう心配でね。バストスに帰省する度に、家から一本道の産業組合まで乳飲み子を抱いて、父親の送り迎えをしていたくらい」。父を気遣う愛子に「何も悪いことはしていない」と溝部は常に毅然としていたという。
そのような嫌がらせはアルバレス・マッシャードで雑貨商を営んでいた長女ミユキにも及んでいた。
「夜中、店の前にペンキをぶちまけられてねえ。国賊っていう張り紙もされるし、『負け組の娘の店』と呼ばれて、物は売れないし大変でしたよ」とミユキは当時を回顧する。
岳父の吉雄武保が日本に物資を送る活動をしていたのも拍車をかけたのだろう。 夢を見た翌朝の八時頃、愛子は家に近づくトラックの音を聞いた。あれ、と愛子は奇妙に感じた。
(一部敬称略=堀江剛史記者)