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58年目の記憶―犠牲者家族から見た勝ち負け抗争―(中)庭に用足しに出て被弾=訓練積んでいた実行者

8月16日(土)

 夕方に庭先取引の業者がくることはあるが、こんな朝にはあり得ない。愛子夫婦の家は道の突き当たりにあった。
 トラックの荷台に甥が乗っており、その手には義理の父からの手紙が握りしめられていた。
 「幾太が足に怪我をしたから、トラックに乗ってすぐバストスへ行くように。子供の着物も幾つか持参するよう」といった文面であった。
 「やっぱり・・・。でも足でよかった」と愛子は安堵に包まれた。親子三人は四時間バスに揺られながら、バストスへ向かう。
 住み慣れた家に着き、門をくぐった。様子がおかしい。メーザの上に白い布がかかった柩を認めた愛子。血の気がひいていくー。
 溝部は庭の便所に立ったところを背中から、撃ち抜かれた。その場所は愛子が夢で見た従兄弟の傷と同じ場所であったー。    
 頭の中が真っ白になった愛子は、半信半疑で布をめくった。父の鼻から、血が流れでた。びっくりした愛子に母、コトは「肉親が来たら、鼻血がでるのよ」と静かに言った。正午を挟んで駆けつけたミユキの時も同様だったという。
 母、コトに五人の子供が残った。葬式では数百人が溝部の死を惜しんだ。墓までの道中、まだ六歳だった義行が靴も履かずに柩にすがりついて泣く姿が愛子とミユキの脳裏に今でも焼き付いている。溝部幾太五十五歳、早すぎる死だった。 「弔問客のなかに犯人がいると思ったら、日本人なんか見たくもなかった」。
 悲しみと怒りでうつむいていた愛子のやりようのない怒りは、葬儀の際の写真からも見てとれる。 
 家族の運命は劇的に変わった。事件の翌年、幾太の両親、竹次郎とキチ、コトと五人の子供たちは長姉、ミユキの住むアルバレス・マッシャードに移った。
 便所で射殺された溝部の死後、幼い子供たちは一人で用に立つことを極度に恐れた。家族がこの土地を去ったのは自然な流れだったろうー。
 「もし、子供がいなければ、夫に暇をもらって実家に帰りたかった。なぜあんなことになったのか、今でも納得がいかない」と愛子さんは顔をしかめる。
 ○〇年に出版された『コラソンエス・スージョス(フェルナンド・モラエス著)』にはテロの実行者ヤマモト・サトルの供述調書がある。しかし、ミユキと愛子がコトから聞いた事件の様子とは多少異なっているようだ。
 三月七日、午後十一時過ぎ、サンパウロから訪問していた組合関係者を玄関で見送った後、溝部は栽培していたランを愛でるためか庭に回っている。
 すでにヤマモトは三時間前から洗濯場のタンクの裏に潜み、機会を伺っていた。
 ヤギが入ってきてランを食べるので、子供達にはいつも閉めておくようにと言い付けてあるのにー。 
 溝部は開いていた裏口の扉を閉め、便所に入った。
 (着物の人物が便所に入ったが、それが誰かは分からなかった。その時、女の声で『お父さん、便所にいるの?』という声を聞いた。それに答える男の声が便所の中から聞こえたので、進み出た)。   用を足す溝部の背後に近づき、心臓の場所を目測、手のブレまで計算したヤマモトは、確実に銃弾を撃ち込んだ。練習は十分にしてあった。   
 「あと数センチずれていれば死んでいなかった」と
後に検察医から聞いた愛子。
 「毎晩、父は仏壇に参っていたのに、何で仏様は、助けてくれんかったか。悔しくて、しばらく仏飯を供えなかった」。
  (一部敬称略=堀江剛史記者)

■58年目の記憶―犠牲者家族から見た勝ち負け抗争―(上)「国賊」「売国奴」の張り紙―テロ前、溝部家に脅迫状

■58年目の記憶―犠牲者家族から見た勝ち負け抗争―(中)庭に用足しに出て被弾=訓練積んでいた実行者