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58年目の記憶―犠牲者家族から見た勝ち負け抗争―(下)=「私の息子を殺したのはあんたか」―溝部氏の母は詰問した

8月19日(火)

 銃声を聞いたコトは「今晩の音はえらい近かったねえ」。台所で片付けものをしていたコトは溝部に話しかけた。
 隣の組合の住宅に住んでいた非日系の役員がよく猫を追い払うため、空に向けて時折発砲していたため、銃声は溝部家にとって日常であった。
 手を拭いながら、寝室に近づいたが、もう横になっていると思っていた溝部の姿はなかった。
 嫌な予感がして庭に走り出るコト。銃弾を受けた便所から、家の方へ向けて歩いてくる溝部の姿から、コトは全てを悟った。
 溝部は十メートルほど家の方へ歩いてきていた。溝部は痩身だったコトにもたれかかった。
 しかし、ヤマモトは(溝部は胸をかきむしるようにしながら、よろめいた。溝部が叫んだら、もう一発撃とうとしたが、一言も発することなく、泳ぐようにして前方に倒れた。溝部の娘と妻が駆け寄ってきて、溝部に覆いかぶさった)と証言している。
 コトと溝部の二人がもつれて倒れた所は、子供の背丈ほどに成長した桜の木の下であったという。花が好きだった溝部が家族で花見をしようと数年前に植えたものだった。
 「孝ちゃん!」と絶叫するコト。映画から帰ったばかりで靴紐をほどいていた三男孝行はその状況に息を飲み、一言も発せずに外へ走りでたー。
 (夜警が笛を鳴らしながら、銃をこちらに向けた。誰かが走る音が聞こえた。こちらも銃を向けた夜警はまた笛を吹きながら走り去った。私は現場から西の方向へ走って逃げた。それから、三晩寝ることができなかった)。       ■
 ヤマモト・サトルという人がここに働いていませんかー。
 「いたけど一週間まえに辞めたよ。どこに行ったか? さあ・・・」。
 十年を過ごしたポンペイアから出聖した、一九五八年。知人から「その人なら、市立市場の魚屋で働いている」と聞いた愛子。複雑な心境で父を殺した男がいたその場所を後にした。
 ヤマモト・サトル。その名前を愛子は片時も忘れたことはなかったー。
 事件後、バストスの警察署から溝部幾太殺害容疑者が捕まったという報に幾太の母、キチは警察署に赴いた。
 コトは「(溝部が)帰ってくるものなら、行きたいが、そんな顔は見たくない」と行かなかった。
 キチは手錠をはめられてうなだれている日本人青年に一言だけきいた。 
 わたしの息子を殺したのはあんたかー。
 ヤマモト・サトルは何も答えなかったという。後でキチからその話を聞いた愛子は「父の仇の顔を一目見てやりたかった」とほぞを噛んだことを今でも思い出す。
 ミユキは二〇〇〇年、フェルナンド・デ・モラエスの『コラソンエス・スージョス』の出版記念サイン会が行なわれたショッピングに娘と共に訪れた。溝部幾太の娘だということを知ったモラエス氏は列の一番最初にミユキさんを笑顔で招き、サインしたという。
 数年前、愛子はある県人会関係者からヤマモト・サトルという男は死んだという話を聞く。
 「会って何する、何言うというわけでもないけど、どんな男だったのか、と今でも思う」。 
 コラソンエス・スージョスの表紙を飾る臣道聯盟の男たちを見つめながら、「そのヤマモト・サトルはこの中にいるのかねえ」と愛子さんとミユキさんはつぶやいた。  
   (一部敬称略=堀江剛史記者)