9月3日(水)
しつけ、日本語教育など、日本的なモノの考え方をブラジルに根付かせる試みは、移民のサガとも言えそうなぐらい試行錯誤が繰り返されてきた。が、残念なことに特筆すべき成功例をあまり聞かない。
経営哲学も一つの考え方であるなら、それを根付かせることができれば画期的なことだ。別の国から持ってきた思想を根付かせるためには、何らかの工夫が必要となろう。それこそが、移住者でもある塾生たちの苦労のタネだ。しかも工夫の成否が、売上や企業規模の拡大などの数字に直に現れてしまう。実に厳しい世界だ。
「進出して最初の十年間は、失敗の連続で、徹底して日本式のやり方がダメだと学んだ日々だった。裏切られ、嫌がらせを受け、鍛えに鍛えられた後、稲盛哲学に出会った」と語る山口泰彦さん(本籍・佐賀県、六五)は電磁鉄芯製造業界一位、スザノ市のテッシン商工の社長だ。本社の命を受け、ブラジル子会社を立ち上げにきたのは三十七歳、一九七五年十二月のことだった。
一般的な日本式経営では、まず土地を買って、それを担保に銀行からお金を借りる。銀行との付き合いが長くなるほど安定的な資金調達が可能になり、その信用を背景に規模の拡大を図る。つまり銀行と付き合うことで成長していく。
でも「最初の十年間に学びました。ブラジルでは土地は二束三文で担保にならない。銀行との付き合い方も、日本とはまったく別。生産規模を拡大しようと思って百万ドル借りて設備投資したが、利子が高くて大変な目にあった」という。一時は借金が三百三十万ドルにも膨らんだことがあった。目一杯の借金で規模を拡大したため、業界首位の座はものにしたが、経営は火の車だった。
自ら営業の最前線にたって、価格を決めていた。ところが「売って、回収してみると赤字だった。インフレ計算が分からなかったんですね、当時は」と振り返る。「とにかく失敗の連続でした」。
そんな一九八六年、潤沢な資金力を武器に米国企業が進出し、採算を度外視した徹底的な低価格競争を仕掛けてきた。心労から体を壊した時期もあった。
莫大な借金と過当競争――。そんな一番苦しい時代に入塾した。「生き残る力を与えてくれた」と当時を思い起こす。ある塾生は「あの頃の山口さんは、まるで野武士のように険しい表情でした。〃寄らば切る〃とばかりに殺気だっていたのを覚えています」。
本人は「それぐらいの形相にならないと生き残れなかった」と笑い飛ばす。米国企業にシェア首位を十三年間奪われたが、耐えに耐えた。その多国籍企業は最後まで利益が出ずに、九九年に撤退。山口さんの経営努力と我慢勝ちだった。
「入塾した時、塾長は三割の利益が出なければと言ったが、この業界では税金が高すぎることもあって、せいぜい一~二%です。でも、利益の少ない仕事をコツコツと続けてきた成果がこれです」。顧客企業は四百社を超え、メキシコなどへも輸出する。
現在では「日系企業は稲盛哲学をベースに会社を作っていき、日本人としての利点を追求することで、ブラジル企業に対抗できる」という境地に達した。もちろん「ここに合ったやり方で稲盛哲学を導入する」という条件付きだ。「痛い目に会ったからこそ、なにをどのように導入したらよいかが分かるようになった」という。
創業二十七年目にして生まれた精神的余裕は、稲盛哲学なくしてありえない。「つい最近ですよ、無借金になってブラジルが好きになったのは――」。
(深沢正雪記者)
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