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こどものその視察旅行=100周年に老人村実現を(下)=経営苦しいピラシカーバ市老人村=景気に左右される福祉団体

9月3日(水)

 翌日、一行はピラシカーバ市に向かった。午前九時に出発し、正午にUSP農学部に到着。昼食をとった一行は、老人村に向かった。楽団の君が代に迎えられた一行は早速見学した。
 老人村には六アルケールの土地に百五十戸約五百人が滞在する。常駐の看護婦のほか、週二回ほど医者が巡回。近隣に、ピラシカーバ川が流れ、緑が豊富な地域。高齢者にとっての環境は申し分の無いように思える。
 老人村の経営はユニークだ。村が土地を無償で提供し、滞在者が自己資金で家屋を購入する。そして、滞在者が亡くなった場合には、その家屋を村に寄付する。入居資格は、六十歳以上の年齢制限と健康面での審査があるが、八年来の入居者によれば「厳しくはない」と言う。
 五百人の内、百五十人が家屋を建て入居。残りが外部から入居した経済的に困窮した高齢者たちだ。
 同村は、九十七年前にある篤志家がこの土地を提供したことに始まる。その後、篤志家の理念のもとに土地を無償で提供し入居者が家屋を建設、困窮者に対して家屋を貸し出す理念はいまでも変わっていない。
 毎日の衣食住は自腹で、共益費としては庭園管理費や電気代などを支払う。入居中の漆間正和さん(七七)によれば「百四十レアルぐらい。その内訳は、七十レアルが管理費、三十八レアルが電気代だ」と明かす。
 漆間さんは、同村に滞在する日本人二人の一人だ。USPに通学していた娘の紹介でこの場所を知る。五十年近くサンパウロ市に住み、アチバイア市に約十年間。八年前にここに移り住んだ。
 かつては、兄のひろしさんが経営する「モトラジオ」の経営陣として活躍、弁護士の資格も持つ。
 漆間さんは「ここでは外部との付き合いは少ない」と明かす。その背景には、「これ以上入居者を増やせばそれだけ経費がかかるからだ」と説明した。「実際、近年外部からの入居希望者、入居者も減少している」と語る。
 現状は苦しい。六月には収益が十四万九千レアル、支出が十六万七千レアルと約一万八千レアルの赤字会計だ。かつては、連邦政府や近隣の篤志家の寄付も手厚かったが、経済状況の悪化とともに収益は減少。営利活動が出来ない社会福祉法人の性格も手伝って、そのシステムに不安が見え始めているようだ。
 老人村を目指すこどものその、経済的に不安が見えはじめた老人村。寄付でなりたつ福祉法人は、経済環境に左右されやすい。
 一行は、年に一回しか製造しないUSP農学部のピンガ工場を見学。イペー・ホーシュの樽につけたピンガを土産に、午後十時ごろにサンパウロに到着した。    (佐伯祐二記者)


■こどものその視察旅行=100周年に老人村実現を(上)=障害者と老人の共存目指し=ファゼンダ内に建設予定

■こどものその視察旅行=100周年に老人村実現を(下)=経営苦しいピラシカーバ市老人村=景気に左右される福祉団体