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平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(2)=「義父(安立仙一さん)に守られてきた」=日系社会と向き合う決意

9月5日(金)

 「これまでは義父に守られてきた。でも、これからは、一人一人と向き合って、きちんと関係を築かなくては」――。サンパウロ市アクリマソン区在住、山崎和樹さん(二八、埼玉県出身)は深い悲しみの中から、ようやく頭を持ち上げた。義父、安立仙一さんが八月十五日、七十二歳で亡くなった。生前、文協事務局長を務めた仙一さんの家族宛てに多くの手紙をもらい、それを読み進めるうちに、「仕事以外の、利益に関わらない人間関係の大切さ」を悟った。
 和樹さんがブラジルに初めて来たのは大学一年の終わり、九六年。サンパウロ市在住の叔母を訪ね、二ヵ月の滞在中、ポルト・セグーロに一人旅をした。現地では、見ず知らずの人が家に泊めてくれた。「日本で同じような旅行者を見たら、自分は泊めてあげるだろうか」。和樹さんは衝撃を受けた。
 ブラジル人の大らかさに感銘を受けた和樹さんは九七年から一年間、日本ブラジル交流協会生として再び来伯した。大学で日本語教育を専攻していたため、研修先は文協の日本語講座。そして、安立マルシア由美さん(三六)と出会った。
 九八年に帰国、大学を卒業して二〇〇〇年四月、和樹さんは留学生としてブラジルに入国。その二ヵ月後、マルシアさんと入籍した。
 「旅行や協会生はお客さま感覚だったから、『楽しい楽しい』で終わった」という和樹さん。しかし、結婚してからは、社会的立場が一変した。
 日本で簡単にできたことが、異国ではできない。外国人としての制約を感じる毎日。仕事を探す時、「じゃあ、山崎くん、何ができるの?」と質問されても、「何もできないのがコンプレックスだった」。そんな葛藤のなか、和樹さんは再び、文協での日本語教師と同時に、日系通信会社で研修生の職を得た。
 同社では日系企業を顧客とし、インターネットの技術サポートをするのが和樹さんの仕事だ。「ブラジル人の言葉や物事に対する姿勢を通して、意思疎通の難しさを感じた」と和樹さん。当初は、こちらが言ったことを違う意味で解釈され、反対に自分が間違えて解釈することが多々あったという。しかし、今では仕事に慣れ、日系企業への飛び込み営業にも面白みを感じているようだ。
 私生活では結婚後、永住権を申請、半年で取得できるといわれて二年待ち、業を煮やしてブラジリアまで行ってみると、たった二日間で手にできた。「永住権がないと何もできない。先が見えないのを、ひたすら待つのが耐えられなかった」と和樹さん。「でも、ずっと待っていた二年間は何だったんでしょうね」と苦虫を噛み潰す。
 日系社会に関して和樹さんは、「世代的な差を感じることがある。でも、自分はまだ日系社会にちゃんと関わっていない。もっと、食い込まなくては」と語る。専門の日本語教育については、「日系人のためだけの日本語教育ではなく、非日系人も学ぶ意欲が沸く授業が必要じゃないだろうか」と提言する。
 義父を亡くした悲しみから抜け出し、「よし! やるぞ!」と気合いを入れ直す和樹さん。故郷の両親、修さん(五八)と史子さん(五〇)とは時々、電話で話している。「母親は、『いつ帰ってくるの?』とポロッと漏らすことがある」。しかし、和樹さんは、これからもブラジルで頑張るつもりだ。「いつか、日本に一度も行ったことがない二世の義母(由紀子さん、六八)も一緒に里帰りしたい」。和樹さんは力強く語った。
(門脇さおり記者)

■平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(1)=「そのまま居つきたい」=日本人と日系人の溝を越え

■平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(2)=「義父(安立仙一さん)に守られてきた」=日系社会と向き合う決意

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