9月13日(土)
ここ十数年でブラジルに移り住んだ日本人七人に話を聞き終えたところで、「移民区分のなかで、彼らをどう位置づければいいだろう」との疑問が寄せられた。国策でやって来たわけではない。しかも、ブラジルから日本へデカセギ労働者が流れるという世界経済の状況下で、わざわざ日本からブラジルへ来た人たち。よく耳にする戦前、戦後移民を再確認するとともに、新しくブラジルに来た日本人たちの区分を考察した。
戦前移民
ブラジルへの移民は一九〇八年六月、民間の移民会社による笠戸丸の契約移民七百八十一人・百六十五家族と、自由移民らが始まりということは、よく知られている。二〇年代以降、日本政府は人口問題と景気対策の一環として、移民会社に補助金を与え、移民たちには渡航費を支給、国策として移民を奨励した。その後、一九四一年六月のブエノスアイレス丸までの三十三年間で、総勢十八万八千三百九人(ブラジル労働商工省移民局統計)がブラジルに渡った。これが『戦前移民』だ。
戦後移民
四五年八月、第二次世界大戦が終結した。日本は海外からの引き揚げ者で溢れ返り、人口過剰と食糧難に陥った。五三年一月、近親呼び寄せ五十一人が渡航して移民再開、同二月には民間業者が仲介する自営開拓農業移民として十八家族五十四人が渡伯した。その後、養蚕、コチア青年など各種移民が渡航。日本政府は六六年、移住渡航費の全額支給を開始した。七四年、日本移住事業団など合併して国際協力事業団(JICA)発足。同団現地法人のJAMIC(移植民担当)とJEMIS(金融担当)が八〇年、ブラジル民法違法のため廃止決定となった。この八〇年代初頭までの移民を『戦後移民』というらしい。
移民とは
では、八〇年代以降の渡航者は『移民』と呼ばれないのだろうか。
USP文学部教授、森幸一氏は、「ロス・アンジェルス(米国)では、最近の若い定住者を『新一世』と呼んでいる」という。しかし、ここブラジルでは、移住して十四、五年経つ森氏でさえ、「誰からも『移民』として認められていない」と感じている。「ただ〃日本から来た人〃と思われている」と森氏は語る。
サンパウロ人文科学研究所の宮尾進氏は、「移民というのは、国と国の契約で来た人のこと。個人の意志で来た人は自由渡航者。帰りたければ、帰ればいい」。
戦前の笠戸丸移民は、民間業者の募集に応じて渡航したが、『戦前移民』に区分され、戦後の辻、松原の両民間業者の移民も『戦後移民』に組み込まれているようだ。大々的な計画性があれば、『移民』といえるのだろうか。それに、成り行きで、個人的に来た自由渡航者とはいえ、この国に配偶者、子どもがいる人などは、「帰りたいとも思わない」「帰りたくても帰れない」が実情。
ブラジル滞在が通算七年になる日本人は、「いつまでたっても、『移民』の仲間に入れてもらえない。それならそれでいいけど、だったら、俺たちって何?」とぼやいていた。
連載初回で「ブラジルを知る会」代表の清水裕美さん(四六)が、「日本人と日系人の間の溝を越えてみたら、溝なんてなかった」と言ったように、今の時代、『移民』という概念は存在しても、実際は本人の気持ち次第。元来の移民と成り行きで来た人たちとの間に、溝はないのかも知れない。
(門脇さおり記者)
=おわり=
■平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(1)=「そのまま居つきたい」=日本人と日系人の溝を越え
■平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(2)=「義父(安立仙一さん)に守られてきた」=日系社会と向き合う決意
■平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(3)=2001年来伯=カルチャー・ショックの嵐=「ブラジルに溶け込まなきゃ」
■平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(4)=韓国移民と結婚し渡伯=ボンレチーロでビーズ刺繍
■平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(5)=大学卒業し通訳翻訳業=日系妻との二人三脚人生
■平成の自由渡航者たち=運命の出会いに翻ろうされて(6)=身重で単身渡伯し出産=一見型破り、でも自然体