9月18日(木)
勝ち組の流れをくむ組織、全伯青年連盟が各線有志を結集して一九五〇年一月、マリリア市(SP)で産声を上げた。会員総数三万人とも四万人とも言われた大所帯だった。
これに先立つ一年ほど前、サンパウロ市・近郊青年連盟が発足、のちに、全伯青年連盟の傘下に入った。朝川は発起人の一人で初代理事長に就いた。
青年連盟は柔剣道などのスポーツを主な活動としていた。戦勝派の間では日本精神を子弟に注ぎ込むために、日本語教育の必要が声高に叫ばれた。
朝川はピニェイロス区にあった同連盟会館を借り、昭和学院を始めた。一九四九年五月二十七日のことだった。
旧昭和新聞社主、故川畑三郎が婿の古城芳さん(富山県人会事務局長、七二)に伝えた話では、同紙がサンパウロ州より日本語教育の許認可を受け、伯日協会を設立。日本語学校を営業するための認可を与えた。取得校第一号が昭和学院だったという。
開校時、生徒は十代後半の青年を中心にした七人。朝川夫妻のほか、故生出富雄氏、故長橋斉氏が教鞭を執った。
翌五一年二月にブタンタン通りに移転。幼稚部などコースを充実させていった。以後、九〇年代初めに閉校するまで、二度、同区内で校舎を移している。
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「社会に役立つ人間を育てる」──。
朝川の教育理念は人作りにあった。学習態度が悪ければ、棒で生徒の体を叩いた。保護者にも平気で、怒鳴りつけた。スパルタ教育が効いたのか、「昭和学院の生徒は礼儀正しいですね」と外部の評判も上々だった。
第一期生の福本千賀人さん(六九、輸出入業)は「教え方は本当に厳しかったですよ」と述懐する。
「規律を持って清く正しく生きなければならない」というのが朝川の口癖で日本語教育をしなければ愚かな人間になってしまうと、常々、心配していたという。
生徒は、お話大会などの行事では入賞の常連組。「昭和学院が出場するならうちは、出ない」と言い出す学校もあった。嫉妬の余り、朝川が裏で糸を引いている、と中傷する人もいた。
福本さんは「審査は厳正に行われた。不正を働く余地なんて無かったはずだ」と弁護。「無愛想で難しい人だったので誤解を招きやすかった。先生は教育者としては偉大な方でした」と恩師を慕う。
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学校経営は当初、赤字続きで、教職員も薄給で教壇に立った。朝川は採算を度外視して子弟の教育に当たったという。経費を工面するため、よく知人に借財を頼んだ。もちろん、私有財産の持ち出しもあった。
川畑の元にちょくちょく顔を出し、様々な相談を持ち掛けた。「岳父は借金を申し込まれると思って、朝川を避けていたのではないか」と古城さんは証言する。
招かれざる客が帰ると、川畑は決まって口走ったという。「嫁がしっかりしているから、やっていけるだけ。あいつは、何にも出来ないやつだ」。金銭感覚の無さは後々、朝川の命取りになる。一部敬称略。
(つづく、古杉征己記者)
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