9月19日(金)
「さくら、さくら、やよいの空よ、見渡すかぎり…」。
七八年六月十八日のパカエンブ競技場(サンパウロ市)。ブラジル日本移民七十年祭の記念式典が開かれ、八万人が会場を埋め尽くした。来伯された皇太子ご夫妻(現天皇)を前に、約五千四百人の子供たちが大合唱、フィナーレを飾った。
旧ブラジル公認日本語学校連合会(=日学連)も加盟校に通う児童・生徒を多数、送り込んだ。
◆
「祭典を成功させるため、一肌縫いでもらいたい」――。
式典当日を数カ月後に控えたある日、七十周年記念祭委員会より朝川(日学連総務)の元に一本の電話が入った。
委員会の中心的な存在だった文協は、各地の文協に子供たちの参加を呼びかけた。が、五千人規模の人数を集めることは到底、出来なかった。
そのため、全国規模の組織で奥地の学校を傘下に収める日学連の協力を求めてきたのだ。
会の実権を掌握していた朝川は快く応じ、直ちに、会員校に号令を掛けた。「自分が頼られていると思い、張りきって準備を進めた」(関係者)。
鶴の一声で全国から子供たちがサンパウロに集結。白のシャツに黒か紺のズボンやスカートに身を包んで外がまだ暗いうちから、会場で待機していた。
出番はプログラムの最後。刻一刻と時間が経つにつれて、胸の鼓動は高まった。教え子が皇太子御夫妻とエルネスト・ガイゼル大統領(当時)を前にして、歌を歌う―。朝川の胸には迫るものがあったにちがいないと、前出の関係者は話す。
子供たちの合唱で祭典が幕を閉じ、大興奮のうちにご夫妻は退出された。
コロニア各界の代表者は同日午後四時、州知事公邸で皇太子ご夫妻との謁見が許された。朝川は日本語教育界の代表として出席。ご夫妻より激励のお言葉を送られた。
◆
記念祭から二カ月経たないうちに、故保利茂衆議院議長(当時)、三原朝雄自民党国会対策委員長(当時)ら九人が来伯した。うち八人が昭和学院を公式訪問。授業参観するなどしてコロニアの教育事情を視察した。
父兄と懇談した時の挨拶の中で保利議長はコロニアの発展ぶりを賞賛。その筆頭に日本語教育を挙げ、「労多くして報われることの少ない仕事であるが、皆さんの存在は貴重なものだ」と述べたという。
この後、同議長の出身地、佐賀県唐津市内の小学校と昭和学院は姉妹校提携を結び、親善訪問団の派遣など交流事業を展開した。訪問団の受け入れについて、当時の市長自らが積極的に取り組んだ。
姉妹校からは多くの図書が贈られた。朝川はこれに、「保利文庫」と名付け、終生、大切に取り扱った。
七八年の二つの出来事は生涯を通じての朝川の誇りで、七十年祭のことをよく、話題にして周囲に自慢していたという。この頃が昭和学院そして、朝川自身の最も華やかな時期であった。一部敬称略。
(つづく、古杉征己記者)
■朝川甚三郎不運の半生―1―臣道連盟活動に関与―最後の居場所、厚生ホーム
■朝川甚三郎不運の半生―2―サンパウロ市近郊―青年連盟の初代理事長―昭和学院を開校、生徒に体罰
■朝川甚三郎不運の半生―3―78年、皇太子ご夫妻を歓迎―絶頂、華やかだった時期
■朝川甚三郎不運の半生―4―国語として日本語教育―かたくなに拒んだ
■朝川甚三郎不運の半生―5―語普センター発足後―日学連の内紛火吹く
■朝川甚三郎不運の半生―6―日学連不祥事で求心力喪失―〝不思議な力〟にすがる
■朝川甚三郎不運の半生―7―内助の功、妻さきさん=息子は強盗に射殺される