9月24日(水)
安江信一旧日学連事務局長の自殺(八七年四月)と前後して、元日本語教師の故折橋シズさんが訪日。「エスパーシール」と呼ばれる指先大の特殊なシールをブラジルに持ち込んだ。ESP(イーエスピー)のブラジル進出第一歩だった。
ESPとは「〃ま心〃という不思議な力」のこと。シールを身体に貼り付けたり、パワーが封じこまれているとされるテープを流して、潜在能力や自己治癒能力を呼び覚まし、心身や仕事の悩みを解決させるという。「決して、宗教ではない」(関係者)。
当時心臓を患っていた朝川は折橋さんよりシールを一枚分けてもらい、患部に貼り付けたところ、教えの通り、病気が快方に向かったという。本人は、自分に霊感があると思い込み、ESPの普及に熱を上げ始めた。
日学連の不祥事で求心力を喪失。昭和学院の生徒数も下降線をたどっており、ESPに対して、藁にもすがる思いだった。
これが、当たった。連日、客がシールを求めに自宅を訪れ、依頼があれば、〃治療〃も施した。収入はうなぎ登りで伸びた。
サンパウロ市リオペケーノ区の自宅近くに家屋を借りて事務所兼住宅とした。サンパウロ市パルケ・プリンシッペ区に新居を構えるまでとなった。
しかし、ブラジルESP友の会が発足、活動をスタートさせると、幹部たちと意見が合わず、袂を分かってしまう。
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朝川は、安江を救えなかった自分を恥じた。後輩たちからつるし上げを受けたことで、ついに、一線から身を引くことを決意。八〇年代の終わり、国井精さん(山形県人会副会長、六六)に告げた。
「私は今季限りで下りる。頼りになるのはあなただけだ。聖西地区のためにがんばってもらいたい」。
聖西日本語教育連合会は朝川の発案で七〇年に結成された。朝川は日学連と同じく総務担当として権力を振るってきた。これが最後の公職だった。
国井さんは太平洋戦争を挟んだ時期、ポンペイア市(SP)郊外の移住地で少年期を過ごした。外国語教育が制限されていた時代だったため、満足に日本語教育を受けることが出来ず、辞書を頼りに独学で言葉を身につけた。
苦学しただけに、日語教育に対して強い信念を保持。普段から朝川に意見をぶつけた。「あいつは食って掛かってくるからすかん。でもいないと困る」と朝川から全幅の信頼を置かれていた。
安江の自殺を機に、国井さんは一時、〃業界〃から離れたが、朝川の願いで呼び戻され、聖西日本語教育連合会副会長に就任。小沢保治会長(当時)を支えた。以後、九八年から会長、〇三年より現職の相談役になる。
朝川は、聖西地区の役員から退くと、全く会に顔を出さなくなった。会員なのかすらも分からない状態で、「後輩たちは寂しい思いをした」(国井さん)。
昭和学院は生徒の減少を食い止めることが出来なかった。開校四十五周年を祝うことなく、九四年二月、静かに幕を下ろした。日本語教育に半生を捧げた朝川、この時、八十歳を既に越えていた。一部敬称略。
(つづく、古杉征己記者)
■朝川甚三郎不運の半生―1―臣道連盟活動に関与―最後の居場所、厚生ホーム
■朝川甚三郎不運の半生―2―サンパウロ市近郊―青年連盟の初代理事長―昭和学院を開校、生徒に体罰
■朝川甚三郎不運の半生―3―78年、皇太子ご夫妻を歓迎―絶頂、華やかだった時期
■朝川甚三郎不運の半生―4―国語として日本語教育―かたくなに拒んだ
■朝川甚三郎不運の半生―5―語普センター発足後―日学連の内紛火吹く
■朝川甚三郎不運の半生―6―日学連不祥事で求心力喪失―〝不思議な力〟にすがる
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