9月24日(水)
十二歳で来伯した当時、空を見つめながら、故郷の友や空をまぶたに浮かべた一老移民の綴った詩。それに音楽教師・小野寺七郎さんが曲をつけ「第三十七回合唱祭」で発表された。詩を書いたのは、ガルボン・ブエノ街で食料品店を経営する外山美佐尾さん(八七=広島県出身)。「自分の経験したことを、何か記録に止めておきたいと思って」書いたのがきっかけだった。
「ハイ、いらっしゃい。そのカブは美味しいよ」と元気な声で来客の対応をする美佐尾さん(旧姓藤井)は、昭和三年、十二歳の時に父母と三人の兄弟たちとらぷらた丸で来伯した。出身は広島市中心部から北へ三十キロほどの安佐郡鈴張村(現在安佐北区鈴張)。
一家が財産を売り払って、入植したのはモジアナ線の植民地。八カ月間コロノとして過ごした。
「広島にいれば友達と女学校に行けたのに・・・」
やしの樹の実を手に取り 友の笑顔を思い出す
古里の空に呼びかける
山の木霊のカフェザール
カフェもぎでささくれだった手をさすりながら、外山さんは故郷の友、空を思った。暗闇のなか、返事の返ってこないことを知りながら友に話しかけ、泣いた。
幼い頃に連れられて
異国のはてに来たわたし
畑の仕事は辛いけど
父母の愛情に包まれて
ランプの明かりや夕餉時
古里の空に呼びかける
その後、リンスに移り七年契約でカフェ栽培、その後自作農で同地に止まった。父母を恨むということは考えなかった。
「勉強させれんで…すまん」寺の檀家総代や新聞社の通信員をしていたこともあるという父・吾三郎さんは教育熱心だった。
「その父が毎夜、ランプの明かりの下で、色々な歴史の話や政治の話をしてくれたものね」
美佐尾さんは二十三歳の時、外山武吉さんと結婚、出聖後、バールやペンソン経営なども経て、現在の食料品店を営む。現在は息子の恒さんや忠さんに経営をまかせているが、「お客さんがよくしてくれるから」と笑顔で店に出て、知人とよもやま話に花を咲かせる。
ふと「来伯当時の頃のことを詩にして、記録に残しておきたい」と思い立ったのが十年ほど前。仕事の合間にも短歌や俳句を三十年間続けてきたことが役に立った。
しかし、『移民娘の思い出』と名付けたその詩も、
どこかに紛れてしまい、分からなくなっていたのを昨年、タンスの中から見つけた。
「懐かしくて、店に来るお客さんに見せとったわけね。そしたら、みんなが褒めてくれてねえ」と美佐尾さんは相好を崩す。
知人を通して、音楽教師の小野寺七郎さんがその詩に曲をつけた。
「お金を残すだけでなく、移民の苦労話などを詩などにして、残したほうがいい」と様々な場所で語ってきた小野寺さんが曲をつけた移民の歌は、本人でも数が分からないほどだ。
十四日に文協大講堂で行われた「第三十七回合唱祭」で『移民娘の思いで』は歌われた。会場でその歌声を聞いた美佐尾さん。
「やっぱり、嬉しいよね」
故郷、広島には四回帰っている。
「四十年くらい前だったかねえ、最初に帰った時、鈴張の八幡さんのところへ行って『父母は帰れんかったけど』と帰国報告してたんですよ」
近くを通りかかったおばさんが「あんまり、みかけん顔じゃが」と美佐尾さんに話しかけたのをきっかけに、話が昔に及んだ。
「その人が私の家族が移民する時、売り払ったものを買った人だったことが分かったわけ。戦争で苦労した話も聞いたよ。私の親戚でも、原爆で死んだのがいるからねえ・・・。ブラジルに来て、学校へは行けんかったけど、感謝せんとね」
美佐尾さんの楽しみは、短歌や俳句、詩などの題材を見つけ、言葉を繰りながら、リベルダーデを散歩することで「色んなことが頭に浮かんできて、困るくらい」だという在伯七十五年の元〃移民娘〃の創作意欲は、衰えることを知らない。